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トキワ、シュウマツドリ
創作置き場
-5-トルマリン・トロイメライ

「……うん」

 安物の色鉛筆を置くと、アルマは手にした画帳のページを満足気に眺めた。月明かりに照らされて踊る少女の姿は我ながらなかなか上手く描けている。自分の画力も捨てたものではない。
 薄暗い宿の部屋には珍しくランプが灯っており、橙色の炎が揺らめいて彼の元を照らしていた。画帳を閉じると彼は目を瞑る。
 殺せないのだと言った。彼女と出会った時点でそれはもう決まっていたのかもしれないし、自分が変わってしまったのかもしれない。本音の部分ではもう誰も『殺したくない』のだろうか……。
 そもそも、どうして殺そうとしていたんだっけ?

「やあ。随分と道草を食っているようだけど」

視界に広がる暗闇。冷たい手が顎に触れる。背筋を走る冷たい何かに彼はぞくりと身体を震わせた。背後にいる。脳髄を溶かすようなその声は、何故だか酷くおぞましく聞こえる。
 薄い雲が月を隠して、部屋には暗黒と静寂が広がる。気が付けば、揺らめいていた灯りは静かにその火を絶やしている。振り返れば、恐ろしいほどに美しい顔があった。

「ふふ、なんだか現を抜かしているようだね」
「……っ」
「君、視えるんだろう?」

 耳元で囁くようなその声に、ぎくりと彼は身体を強ばらせた。何か言おうにも言葉が喉で支えている。悪神の冷たい手は顎からするりと落ち、首元にゆるりと掛けられる。撫でるようなその動作は、まるで蛇に舐められているかのようだ。

「……代案は無いのか」
「代案?」
「彼女は手強い。俺には到底殺せそうもない」
「……ぷ、あははは! へえ、視えている君でさえ、手強いのかい?」

 何とかして紡ぎ出した言葉は苦し紛れで、アルマは苦い顔をした。少年のような笑い声は、無邪気と言うより嘲笑を含んでいる。頭の後ろで彼が笑っていないことなど分かっていた。
 氷のように温度のない手が、服の隙間から入ってきて身体に触れる。左胸を人差し指がつう、と撫でるのがぞわぞわとして気持ち悪い。

「今更ここまで来て日の当たるところに戻れるなんて、君はそんな楽観的なことを思っているのかい?」
「……そんな、こと」
「人殺しのくせに」

 幾百の四肢が縋り付いていた。四九九の血潮で床が濡れていた。女の泣き叫ぶ声、男の苦痛に歪んだ乾いた声、子供が母親に助けを求める声、子を失った親の絶望する叫び声。鮮やかな赤色で穢れた自分の身体。
 血の臭いがした。肉が腐る臭いがした。人間の息絶える音が聞こえた。分かっていた。自分には暖かな日差しの元に生きる権利はないんだと、分かっていた。
 分かった上で、彼女を求めてしまっていた。その光に縋っていた。


♦♦♦♦


「キミってばサイテー!」

 窓から顔を覗かせるなり、飛び込んできたのは少女の甲高い罵倒だった。拳をきゅっと握りしめてこちらを睨んでいるが大して怖くはない。
 というのも、彼女の怒りの原因は彼にある。それ故、彼は少々申し訳なさそうに眉を下げて目を顰める。

「ごめん」
「何も言わず会いに来る約束をすっぽかすなんて! もう来てくれないかと思ったんだよ!」
「ごめんって」

 謝罪以外の言葉が出なくて、アルマは頭を垂れた。不満そうな彼女を見ていると、ずっと夜の密会を待っていたことがありありと伝わってくる。複雑な心境だ。
 「あの夜」。彼は彼女に会いに行くことが出来なかった――否、しなかった。清廉な彼女に触れるのが恐ろしかった。血で穢れたこの手で彼女に触れることは、赦されないことのように感じた。
 もうやめようと思っていた。一度会うのをやめれば、もう望まずにいられるだろう。もうこんなに光に焦がれる苦しみもなくなるだろう……そう思っていた。

「もう来なくなっちゃうのかと思ったんだよ」
「……もし、来なかったらどうするつもりだったんだ」

 怒りが静まりつつあるその表情には、安堵と不安が滲んで見える。ふと問を投げかけると、彼女は少し俯いて考え込む。
 どうして結局会いに来てしまったのだろう。惹かれるようにここに来てしまった理由は自分でも分からないし、考えたくない。それに、どちらにせよ殺すには彼女に会わなければならないし。そう言い聞かせて罪悪感を誤魔化した。
 目の前の彼女をぼんやりと見つめる。長い睫毛が瞬きに合わせて動いて、吸い込まれそうに紅い瞳が覗いている。ふっくらした薄紅の唇の隙間からは、うーんと声が漏れる。

「……暗殺未遂、不法侵入、公務執行妨害その他余罪諸々で全国指名手配、かな」
「まじかよ……」
「なんてね、冗談だよ! キミが来なかったらそれは仕方のないことだから。ボクは潔く諦めるよ」

 彼女が珍しく真剣な顔で言うので、彼は苦虫を噛み潰したように眉を顰める。すぐさまアレキサンドラは舌を出して茶化すように、悪い顔をした。普段よりも幾分落ち着いた声色は少し寂しそうに感じられる。
 伏し目がちに微笑んだ少女に表情を歪めながら、アルマは腰のポーチを手で探った。何か赤い物が詰まった小瓶を取り出すと、その蓋を開ける。

「何これ?」

 目の前に差し出された小瓶を見て、アレキサンドラは怪訝な顔をして彼を見上げた。彼はその問に答えずに、食べてみろ、とだけ告げる。
 彼の手の中の小瓶からは嗅いだことのない匂いがする。不快ではないが少し怖い。親指と人差し指で摘まむと、それが少し湿っているのが分かった。恐る恐る口元へそれを運んで、彼女はびっくりしたように目を丸くした。

「すっぱ……っ!?」

 思わず口を窄めると、アルマは少し意地悪に口角を上げていた。その顔には「想像通り」と書かれている。しかし、口に含んだそれは暫くして甘さを滲ませ始めた。果肉の甘酸っぱさが何処か癖になりそう。

「これは俺の国に古くからあった漬け物を模してる。古い時代にこの国に移住したんだろう。ここの人の口にも合うよう、蜂蜜で味付けされてる」
「んー、へえ! あっ、もう一つもらってもいいかな」
「ああ」

 どうぞ、と差し出された瓶から梅干しを摘んで取り出すと、二つ目のそれを口にして彼女はまた口を窄めた。
目をぎゅっと閉じてその酸味に肩を震わせる彼女を眺めて、アルマはぼんやりと考える。彼女が想像通りの反応をした瞬間、思わず胸が躍った。そして同時に言い表しがたい背徳感に襲われるのだ。
 時折、正気に戻る。今自分が何をしているのか、自分の目的が何なのか、自分が何者なのか……最早、何が正気なのかも分からないが。

「そうだ、今アルバム見てたんだよ」
「……アルバム」
「そうそう。せっかくだし見せてあげるよ」

 眉間に皺を寄せて難しい顔をしている彼に、容赦なく浴びせられる少女の眩しい笑顔。大切そうに抱えているその分厚い冊子は、何度も繰り返し開いたのだろうか、表紙の所々が剥げている。
 重い表紙を持ち上げると、色褪せた写真達が並んでいた。彼女の視線の先には、彼女と同じ凜とした紅い瞳で、艶やかな黒髪の女性。顔立ちはどことなくアレキサンドラに似ているような気がする。

「ボクの母上だよ! まあ、身体が弱くて三歳の頃に死んじゃったんだけどね」

 そう呟いた彼女の横顔は、存外にいつも通りのように見えた。彼女がもし母親のように成長すれば、間違いなく絶世の美女になるだろう。

「……ボク、もう殆ど母上のことを覚えてないんだ。声も、仕草も、温もりも思い出せない。だから、せめて顔だけでも忘れないようにって」

 アレキサンドラは健気に笑う。寂しくはない。居ないのはずっと慣れっこだ。ただ、忘れてしまうのが怖い。母親に寄り添う顰め面の男性――父親に視線を移すと、彼女は懐かしそうに微笑んだ。

「ね、アルマは? キミの家族はどんな人だった?」
「家族……か」

 視線を上げて覗き込んでくる彼女の瞳に、アルマはまた酷く頭痛がした。細めた目の睫毛の隙間から、霞掛かったような曇った瞳が覗く。深い霧の中、断片的な記憶がちらついていた。けれどそれは何の手がかりにもならず、指の間から滑り落ちていく。

「……やっぱり、何も思い出せない」

 ふと、以前見た嫌な夢のことが頭を過ぎる。

「……というか、そもそも……ロクな事が無かった、気がする」
「うーん……じゃあ、ボクがアルマの楽しい思い出になるよ! 思い出せないなら、これから楽しいのを積み重ねていけば良いもんね」

 驚いたように一瞬目を見開いた彼に、アレキサンドラは「へへん」と得意げに笑った。痛いくらいに眩しいその笑顔を、アルマは直視することが出来なかった。
 もう十分だ。もう十分、お前は俺に光をくれたから。これ以上望むことは、赦されない自分にとっては罪なのだ。

「余計なお世話だ」

 だから、もう望む必要も無いようにしなきゃならない。離れなきゃいけない。「人殺しのくせに」。耳元で、そう囁く声がした。

「大体、お前は俺の何なんだ? 人の心にずかずか踏み込んで、何がしたい?」
「えっ、ごめん。気に障ったのなら謝るよ」
「鬱陶しいんだよ、お前のそういうとこ」

 喉の奥から突き上げてくる思ってもいない言葉に、口角が引きつるのが分かった。言葉の一つ一つが、己の心をずたずたに引き裂く。そうやって、できるだけ痛むように、己の心を抉るように言葉を絞り出した。
 目の前の少女の微笑みが段々と崩れてゆく。その顔を直視することが出来ない。血の気が引いたように凍り付く表情が、ぐらぐらと揺れる視界の中で歪んで見えた。
 吐き気がする。果たして自分はどんなに醜悪な顔をしているのだろうか。だけどこれが正解だ。醜い殺人鬼が普通の人間になれるはずもないのだから。
 短く声を上げて戸惑うアレキサンドラに背を向けると、彼は何も言わずに窓から飛んで部屋を後にした。痛くて怖くて苦しくて、最後まで彼女の顔を見ることが出来なかった。


♦♦♦♦


「♦♦♦! さあ、この兄と兎狩りに出掛けましょう」

 その兄は、たいそう美しく賢く聡明で、たいそう自信を持ち合わせた人だった。
 少年は兄のことが好きだった。

「あ、兄上……今日は遠慮します。読みたい本があるから……」
「そうですか。ではまた次の機会に」

 閉ざされた襖の向こう、父の豪快な足音と嬉しそうな笑い声、忙しく支度をする兄と使用人達の騒がしさを端で聞きながら、少年は怯えた目で書物を眺める。誰にも気にかけられないように、部屋の隅で小さくなる。
 次第に小さくなっていく人々の声。やがて静寂が訪れると、漸く訪れた安堵感に胸を撫で下ろしながら少年は本を閉じた。
 襖を開けて廊下を歩けば、木の床が軋む音まではっきりと聞こえる程に静かだ。穏やかな春の日差しを喜ぶ小鳥の囀り、そよ風に揺れる木の葉の囁く声、草陰の小さな獣がこっそりと駆ける音。愛おしそうに目を細めながら、少年は屋敷の裏へと歩く。

「兎狩りなんて、可哀想だよねえ。ウサギなんか狩ってどうするんだろ。食べるのかな……ウサギは可愛いのに、ねえ、菊之助」

 台所でくすねてきた食べ残しの魚に食いつく灰色の猫を、少年は慈愛に満ちた微笑みで見つめる。骨を残して食べ終えた猫が人懐っこくすりすりと頭を寄せてくるので、喉を撫でてやるとか細い鳴き声が漏れた。

「えへへ、兄上と父上と違って、僕は動物が好きだからなあ……あっ、菊之助~! くすぐったいよお」

 まるで親猫だと勘違いされているかのように人差し指を舐めてくるから、思わず小さな笑い声が零れてしまう。迷い込んできた弱った子猫をひっそり屋敷の床下で飼い始めたのは三ヶ月前。兄にも両親にも使用人にも、屋敷の誰一人にもバレないように、少年だけの秘密だ。

「あーあ、きっと軟弱だとか情けないとか言われてるよ……ううん、良いんだ。僕には菊之助がいるもんね」

 猫を抱き上げぎゅう、と抱き締めると命の温もりを感じた。初めて出会った時とは比べものにならないくらい大きくなって、重くなった。少年は頬をすり寄せる。

「君だけが、僕の大事な友達だよ」

 にゃあ、というか細い鳴き声が、まるで返事みたいで面白くて、少年は笑った。



「♦♦♦様、♢♢♢様と上様は街へお出かけになりましたよ。♦♦♦様はよろしいのですか」
「えっと……うん、僕はやりたいことがあるから」

 お付きの使用人の問いかけに微妙な笑顔で答えて、少年はまたその場をやり過ごす。屋敷に穏やかな時が流れ始めて、やっと唯一の友に会える癒しが訪れるのだ。
 今日の食べ残しには沢山身が付いている。きっと菊之助は勢いよく食いつくだろうなあ。鼻歌を交えながら、少年の足取りは軽やかだ。屋敷の床がぎしぎしと音を立てる。
 いつもの場所に辿り着くと、少年は床下を覗き込む。こうするといつも、菊之助は少年の胸に飛び込んでくるのだ。しかし、その日はどうしてか菊之助の姿はなかった。
 きっと何処かへ食べ物でも探しに行ったのだろう。探す片手間にぶらぶらと辺りを歩いていると、ふとツンと鼻につく異臭に気が付いた。何だろう、とその匂いのする方へ歩いて行くと、やがてその足が止まった。
 灰色の子猫の死骸が一つ。

「あ、あ……っ、あ」

 手の中から、身のよく付いた魚が滑り落ちる。声にならない声が、喉から突き上げてくる。胃の奥から食べたもの全てが戻ってくる。その短い灰色の毛並みは間違いなく、少年の友だった。

「ゔ、ぉええ、え……っ」

 耐えきれずに込み上げてきたものを木陰に嘔吐する。胃液で酸っぱい口の中は不快で、また吐き出してしまいそうになる。背中を冷たいものが駆け抜け、身体中から汗がだらだらと流れると同時に、涙が溢れてきた。
 逃れようのない事実がそこにある。まだ幼い小さな友が死んでいる。異臭を放つ友の亡骸には、ハエが数匹集っていた。そっとその亡骸を抱き締めると、ただの肉塊に成り果てたそれは悲しいくらいに冷たくて、そこに命が存在しないことを強く感じた。
 ふと、少年は気づいた。子猫の死骸には、刃物で切りつけられたような深い裂傷がある。ぞくり、と肩をふるわせたその時、背後で砂を踏む足音が聞こえた。

「あ、に……うえ?」
「どうして泣いているのです、♦♦♦」

 街へ出掛けたはずの兄の姿がそこにはあった。手を赤に染めた兄の姿がそこにはあった。

「あにっ、あ、あに、う、え……? ど、どうして、こっ、こんな」
「ああ、それ、床下に薄汚い獣が棲み着いていたので殺しましたよ」

 まるで落ちていたゴミをただくずかごに捨てたように平静な声。陰になった兄の表情は、暗くて見えなかった――否、恐ろしくて見ることも出来なかった。がくがくと震える口をどうにか動かして、反論しようとするが声が出てくれない。少年は情けなく喉を震わせ喘ぐことしか出来ない。

「♦♦♦がこの猫を可愛がっていたのは知っていましたよ」
「……っ!? じゃあ、どっ、どうして」
「? 床下に薄汚い生き物なんかがいたら、不衛生でしょう」

 温度のない瞳で、温度のない声色でそれは告げられる。少年なりの精一杯の反抗心も、兄の前では簡単に崩れ去ってしまう。
 ぐらぐらと視界が歪んでゆく。いつからバレていたのだろう、知っていてどうして何も言わず、どうして簡単に殺したのだろう、どうして……。
 兄の目に映るこの灰色の猫は、ただの害獣に過ぎないのだ。たとえそれが弟の大事な友人だろうと関係ない。彼は「弟の可愛がっている猫」を殺したのではない。ただ「家に棲み着く獣」を駆除しただけ。

「♦♦♦、この世は弱肉強食です。強いものが弱いものを淘汰するのが世の常ですから」

 菩薩のような微笑みは余りにも無慈悲で救いがない。この世の全てに肯定されたその人の前で、少年は言葉を発することすら出来なかった。

「貴方は優しすぎる。そこがいけないのです」

 少年は兄が好きだった――それは「恐怖」であり、この人を肯定しなければ、愛さなければ、淘汰されてしまうような気がしたからだった。


♦♦♦♦


「……っあ!」

 飛び起きた時、柔らかな日差しが窓から差し込んでいた。薬を飲んだからか、また酷く眠っていたらしい。以前にも増して尋常じゃない量の汗が肌着を濡らしていて、アルマの眉間の皺が深くなる。
 ただ一つ、この前の悪夢と違うのは、その内容をはっきりと覚えていること――というより、元々持っていた記憶を「思い出した」。
 焦点の定まらない瞳でぼんやりと自分の膝を眺めていると、ふと視界に小さな毛玉が飛び込んできた。

「……ぁ、菊之助っ!」

 嘗ての友の名が口をついて出る。ハッとして口元を押さえると、全身を駆け巡るような悪寒と共に何かが込み上げてくるのが分かった。

「ぉぶ、う、ああ」

 トイレに駆け込んで吐き出すと、口の中に残る胃液の不快さは先程見た夢と同じだった。酷い頭痛と震えが止まらない。苦痛に表情を歪めていると、背後から小さな足音が聞こえてくる。
 にゃあ、と黒猫は小さく声を上げる。妙に人慣れしたその子猫はすりすりと身を寄せてくる。違うと分かっていながらも、灰色の子猫の死体が頭を過ぎって彼は再び嘔吐した。
 生き物を殺すことはおろか、その死体すら受け入れられない少年が、どうして殺人鬼になんかなってしまったのか。大嫌いな血の赤色が、どうして今も自分の手にこびりついているのか。
 どうして、こんなにもちぐはぐな自分が生まれてきてしまったのか? 上手く呼吸が出来なくなってゆく。

「……っは、!」

 座り込んだ彼の目の前で、その円らな瞳は彼の瞳を覗き込んできた。これは菊之助ではない。落ち着いて小さな獣に触れると、黒猫は甘えたように喉を鳴らす。
 抱き上げてみると、何処か懐かしい感触がした。十年近く前の思い出が鮮やかに蘇ってくる。ただただ愛おしくて、楽しかった日々が脳裏に映し出される。
 その微笑みは、まるで少年のように。
 確かに彼の手は汚れていた。数多の命を奪ったその罪は消えないし、こびりついた血の臭いは落ちない。
 けれど、アレキサンドラという「光」から離れることは、その罪に対する何の償いにもならない。ただの自己満足に過ぎない。
 ずっと自分の罪に向き合わずに、逃げ続けていたのだ。

「……うん、ちゃんと謝らなきゃな」

 抱き締めると、小さな生命を感じた。暖かくて、微かな筋肉の動きも、皮膚の下から伝わる鼓動も、生きている感覚が心地よかった。



 空いた窓から吹き込む冷たい風は肌に滲みて、アレキサンドラは小さく身震いする。待つ意味などもう無いのだが、何処か彼が来るのを待たずにはいられないのだ。
 アルマのことを考えると、どうしても顔が曇ってしまう。言葉も表情も声色も、はっきり覚えている。彼はもう来ないだろう、忘れてしまえたら良いのに。
 一つ、悩ましげな溜息が漏れた時、風の音が微かに変化することに気づいた。

「……っアルマ!」

 思わず待っていたとばかりに窓際に駆け寄ってしまい、子供みたいだと彼女は少し恥ずかしくなる。部屋に降り立った彼の表情がよく見えなくて、アレキサンドラは不安げに眉を下げる。
 一方のアルマは、彼女を前にしてどんな顔をすればよく分からなかった。だけど、彼女とちゃんと向き合いたい。視線を挙げた先の戸惑った顔をした彼女の目を、真っ直ぐに見据える。

「……その、お、思い出したんだ、昔のことを」
「えっ、ほんとに?」
「ちょっとだけ……だから、その、聞いてほしくて」

 突拍子もなく口から出たのは、予想だにしない言葉だった。自分がどんな顔をしているのか分からない。思った以上にたどたどしくなってしまった言葉が恥ずかしい。
 彼女に誘導されるまま、ソファに腰掛ける。小さく深呼吸すると、伏せた睫毛の隙間から見える瞳は桃色に輝いて見えた。

「……猫を飼ってた。誰にも内緒で、家の裏で」

 ぽつり、と呟くと、色鮮やかに思い出が蘇ってくる。柔らかな日差しも、鳥の声も、風の音も、まるで昨日のことのように思えてくる。

「猫? へえー、どんなの?」
「灰色で毛並みは短くて、これくらい小っちゃい、雄の……菊之助って呼んでた」

 不意に彼の口元が綻ぶのに、アレキサンドラはどきりと胸が疼くのを感じた。その優しい横顔は、いつか街に出掛けた時に見た微笑みと同じだった。

「床下を覗いたら飛びついてくるんだ。食べ残しの魚をこっそり持って行って、嬉しそうに食いつくのが可愛くて」
「うんうん」
「菊之助は抱き締めると小さくてあったかくて、ふわふわで、よく猫じゃらしなんかで遊んだ」

 愛おしそうに話すアルマを見ていると、彼が心底その猫を愛していたんだと伝わってくる。そんな彼をアレキサンドラもまた、愛おしそうに目を細めて眺めていた。

「それでそれで? 菊之助はずっとこっそり飼ってたの?」
「……それが、うん……ちょっと、言いにくい話、なんだが」

 彼の表情に陰りが見える。口籠もる彼をじっと見つめると寂しげな苦笑いが返ってきた。アルマとしても、この続きの話はするつもりではなかったのだ。悩んだ挙げ句、彼は重い口を開いた。

「……殺されたんだ、兄に」
「え」
「ああ、いや……兄上にも事情があったから、まあ」
 
 予想通り。アレキサンドラが目を見開き、その後何処か申し訳なさそうに目を逸らしたのを見て、彼は困ったような笑顔を取り繕う。
 ただ一つ、引っ掛かっている。自分で口に出してみて彼は気づいた。大切なことを、あの夢の先にあるものが霞掛かっているのだ。

「……その後、確か、俺は……ごめん、この先が思い出せなくて」
「……あっ! じゃあ、絵を描いてみたら? 何か思い出すかも」
「絵を?」

 ぱちん! 淀みかけた空気は、彼女の手を打つ乾いた音で一変する。見上げた彼の瞳に光が灯るのを見て、アレキサンドラはにっと笑った。
 言われたとおりに画帳を開いて鉛筆を握ってみると、真白な紙はまるで更地になった自分の記憶のように見えてくる。鉛筆の先が紙に触れると、溢れた記憶が描き出される。

「これは……日向で眠そうにする菊之助」
「あはは、かわいい!」
「……これは、蛙を脅かそうとする菊之助」
「この顔! 可愛い~」

 そこに描かれた緩くデフォルメされた猫は今にも動き出しそうに生き生きしている。欠伸をする姿、寝そべって伸びた姿、びっくりして跳ねる姿。記憶の中のそれが、さらさらと紙の上に映し出されていく。
 彼女がキャッキャと楽しそうに反応するものだから、アルマの筆も止まらずに紙の上を踊る。手を舐める姿、蝶を追いかけて駆け回る姿、レンゲの花の側に佇む姿……。

「あっ!」
「! 何、どうかした?」
「……これは、俺が描いた絵だ」

 紙の上の絵が、記憶の中で少年が描いた絵と重なる。思わず出た大きな声に、アレキサンドラはびくりと肩を震わせた。

「お墓……そう、こっそり菊之助のお墓を作った」

 庭の隅、菊之助の亡骸を埋めて目印に小さな枝を立てただけのお墓。少年の精一杯の弔いの気持ちだ。時たま訪れては、食べ残しの魚を供えて手を合わせた。
 菊之助が死んで幾ばくかたったある日のことだった。

「菊之助のお墓に、レンゲの花が咲いてた。綺麗なピンクの……余りにも綺麗でびっくりして、これは菊之助の命が残した花なんだって思った」

 一頻りその花を眺めた。寂しい庭の隅に凜と佇む桃色の花は命の輝きを放っていた。風に吹かれ揺れるそれは、少年の脳裏に色濃く焼き付いた。

「その花を生きたままの姿で残したくて、どうしようかって……俺には絵を描くことが出来たから」
「うん……」
「紙の中でずっと、レンゲの花も菊之助も生きてて欲しかったんだ」

 色鉛筆も絵の具も使って鮮やかに彩られたその絵は、命の温もりを表現していた。大切に仕舞って時折それを眺めては、少年は愛おしそうに目を細めていたのだった。

「……この前はごめん、それを謝りたくて。あれは本心じゃない」

 話し終えて画帳を閉じると、アルマは彼女に顔を向けてそう告げた。アレキサンドラはぱちくりと瞬きすると、ほっとしたように肩を下げる。

「なんだあ! よかった……てっきりボク、またキミの触れられたくないとこ触れちゃったかと……」
「いや……その。俺は赦されない罪を犯したから、アレキと一緒にいるのも許されないって思ったんだ」
「……うーん、でもさーそれ、ボクの気持ち一切考慮されてなくない?」

 口籠もるアルマに、彼女は腰に手を当てわざとらしく頬を膨らませる。いつもの怖くない威嚇に、彼は思わず後退りした。くりっとした紅い瞳に見つめられると、どうも反論しにくいのだ。小動物のようで。
 えへ、と悪戯っぽく笑うと彼女はいつもの笑顔に戻る。その微笑みは柔らかくて温かい、彼が手を伸ばし求めたものだった。

「キミがどんな罪を負っていようと、誰を殺していようと、ボクには関係ないよ。ボクはね、『アルマ』ともっと一緒に居たいんだ」

 誰かの許しなんていらない。青年と少女の関係を知るものもいなければ、阻むものも居ないのだ。アレキサンドラの無邪気で真っ直ぐな言葉に、アルマはゆっくりと頷いた。
 まあ、不法侵入と殺害予告は罪なんだけどね、あはは! 彼女お得意の王様ジョーク(自称)に苦笑していると、ふと腰のポーチの中で何かが蠢いたような気がした。

「? あっ、こら! お前っ」
「なに?」
「なんか重いと思ったら!」

 制止する彼の腕の間をすり抜けて飛び出したのは、小さくて黒い猫。見事に追っ手をかいくぐって部屋の中を駆け巡り、彼女の身体に飛びついた。

「うわー! 何これ!?」
「……宿の部屋によく来る猫」
「かーわいい!」

 飛びついてきた黒猫を抱き上げて、アレキサンドラはじっとその目を見つめる。見知らぬ人だというのに暴れもしない、人慣れしきっている。
 ざらざらの舌で指を舐められてくすぐったいと騒ぐものだから、彼はやれやれ、と呆れたように一人と一匹を眺めた。小さいくせに随分賢い奴だ。腕の中ですっかり大人しく甘えた声を出す黒猫を楽しそうに見つめながら、彼女はアルマに駆け寄る。

「ね、この子、名前は?」
「な、名前……?」
「ないの? じゃあ付けてあげようよ」

 目を輝かせて見上げてくる少女の表情に、青年は気疲れしたような顔をする。やっと以前の雰囲気が戻ってきたようだ。
 プリムローズイエローの瞳の猫を見つめながら、アルマはうーんと唸り声を漏らす。彼女のぴょん、と飛び出た髪の毛がぴょこぴょこと愉快そうに揺れた。

「…………菊次郎」
「ええ~! なんか違う~」
「あーもう! じゃあアレキが考えろよ」

 不満げに声を漏らす彼女になんだか腹が立って、投げやりになってしまう。そのやり取りも、彼にとってはとても心地がよかった。彼女が真剣に悩んでいる姿を見つめるその瞳は穏やかで、未だに少しぎこちないが口角は優しい笑みを作っていた。

「……あっ、じゃあ『レンゲ』! さっきレンゲの話したでしょ」
「ああ……まあ、良いんじゃないか」
「ふふ、レンゲ! 良い名前だね、かわいいね」

 何度か名前を呼ばれると、黒猫はにゃ、と可愛い声を返す。いくら何でも人慣れしすぎだと思うが……。ぎゅう、と彼女と額を押しつけ合うその姿に、彼は嘗ての自分を追想した。
 消えない罪悪感も、血の臭いも全てを受け入れて、背負って生きていく。けれど今の彼は、友が教えてくれた生命の温かさを思い出した。
 もう戻れない道を背に、新しい道を歩いて行く。その道中は、きっと一人ではない。



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