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トキワ、シュウマツドリ
創作置き場
-8- モレンド、パイライト
 しとしとと窓辺を濡らす雨。
 2月の半ばにしては暖かな曇り空は、やがて冷たい雨が降らせていた。
 木の葉に雨がぶつかって弾ける音、滴る水が落ちてまた飛び散る音。開け放たれた窓の枠に頬杖を突きながら、アレキサンドラはぼんやりと濡れた森を眺めていた。湿った風が緩やかに吹いている。その横顔は何処か物憂げで、跳ねた水滴で白い肌が少し濡れている。

「……あ」

 厚い雲に隠され月明かりの差し込まない暗い森に、一つの人影を視認する。途端に、重苦しかった少女の表情に光が宿る。ぶわわ、と花が咲いたように表情を綻ばせて、アレキサンドラは暖炉の前で温めていたものを手に取った。
 額に張り付く前髪から垂れる雫に表情を歪めながら、音を立てないよう窓に足を掛ける――ところで、少女が嬉しそうに駆け寄ってくるのが目に入った。フードを脱いだアルマは焦ったように目を見開きながら、湿ってその重さを増したマフラーをするりと外す。

「アルマ!」
「……アレ、キちょっと待て、今濡れてて……その、抱き締めたりは」
「はい!」
「っ、うわふ」

 ふかふか。不意に引き寄せられてしゃがみ込むと、顔に柔らかなものが押し当てられる。温かくて清潔なタオルで彼の頭を包み込むと、わしゃわしゃと少し荒っぽく水気を拭き取った。戸惑ったようにされるがままの彼は大型犬みたいで可愛くて、タオルを被せて額をくっつけた。

「ふふ、水も滴る良い男ってね」
「……」

 本当、突拍子もない。至近距離にある綺麗な顔から、照れ隠しか呆れてか、彼は都合悪そうに目を逸らした。柔らかくて温かくて、優しい匂いがする。真っ白なタオルで顔をごしごしと拭われながら、アレキサンドラの楽しそうな笑顔が視界の端に映る。
 濡れた外套を剥ぎ取られると、暖炉の前に移動したソファに押し付けられる。暖かさが肌に沁みてじんわりするのを感じていると、ごと、と重たい音がして、分厚いマグカップが差し出される。手際が良いな。

「ねえ、手袋も! 濡れてるでしょ」
「……これはいい」
「そう? あ、はいこれ! 今日はね、ホットチョコだよ。甘いの大丈夫?」
「ああ、……ありがとう」

 甘い香りのする茶色い水面にマシュマロを三つ落とす。とろりと溶けて漂う白い雲に、小さく手を合わせてマグカップに口を付けた。口から喉まで支配する優しい甘さに、思わず甘い溜息が出る。熱いくらいの温度が、雨に冷やされた身体の芯に沁みてゆくようだ。

「ね、たまにはいいでしょ? あまーいのも」
「そうだな……うん、美味しい」
「えへへ、マシュマロもう一個あげる!」

 アルマの穏やかな笑みを見て、隣に座ったアレキサンドラはにかっと白い歯を見せる。口にマシュマロを押し付けられるので、困ったように微笑みながら唇に挟んで受け取った。
ぎゅう、と心臓が痛む。いつもの罪悪感とは違った痛みを誤魔化したくて、彼は再びマグカップと向き合った。
 暖炉の前の椅子には、焦げないように気を付けてマントとマフラーが掛かっている。アレキサンドラは残ったマシュマロを頬張りった。口の中で溶ける甘さに満足げに頬を染めながら、彼の身体に凭れかかる。

「……今日はこれをやろうと思って」
「うん? 何これ」
「アレキの知らなそうなカードゲーム」

 中身の空になったマグカップをテーブルにおいて、アルマはウエストポーチから小さな小箱を取り出した。中には色とりどりのカードが詰まっている。どうやら先日の大敗北を随分根に持っているらしい。

「あ、これ知ってるよ! 子供に流行ってるやつでしょ」
「……はあ……お前、本当に何でも知ってるんだな」
「やったことないし、ルールも知らないけどね。初心者だよ!」

 彼女の嬉しそうな返答を聞くなり、動物の描かれたカードを混ぜながら、アルマは眉間に皺を寄せた。ルールの説明を眺めて、アレキサンドラはるんるんと鼻歌を歌いながら揺れる。
 彼は決して負けず嫌いというわけではない。負けっぱなしではいられないというのも一つの理由だが――彼自身、その理由はアレキサンドラを前にして言えるわけないのだが――あの日の彼女の笑顔が、あまりにも楽しそうだったから。

「はい! クマ! 水の九!」
「炎の七、女狐」
「よし! 属性、数字合わせてもボクの勝ちだね」
「……『敗北時、相手手札に次ターン倒れる呪いを付与』」
「あっ忘れてた……」

 カードについた数字が炎・水・風の三属性の相性で変化し、数字が大きければ勝ち、先に手札が無くなった方が負け、という簡単なゲーム。しかし、敗北した動物にはそれぞれ効果が発生し、勝敗は一筋縄ではいかない。戦略かつ運が左右するのである。

「うーん……えいっ、水の十! 狼!」
「風の五、ネコ魔法使い。『次ターンの数字の力関係を逆転』」
「ううーん……」

 手札の残りは、互いに二枚。残りの手札と睨めっこをしながら、アレキサンドラは首を捻った。水は炎に強く、炎は風に強く、風は水に強い……。顔を上げると、すでに戦略が決まっているのか、余裕の表情でカードを眺めている彼の顔が見えた。

「アルマってさ、綺麗な顔だよね」
「……は? 馬鹿にしてんのか」
「してないよしてないよ! だって肌も綺麗だし、睫毛も長いし、目も綺麗だもん」
「顔の綺麗な奴に顔のこと言われると腹立つ……」

 ふと、思わず口から出た言葉に、アルマは不快そうに眉間に皺を寄せて睨んできた。声色にびく、と肩を震わせて弁明すると、彼は面倒臭そうに溜息を吐く。
 普段よりワントーン低い彼の声に、少女の整った顔は不安げに少し歪む。長い睫毛が普段よりも瞬いて、薄紅の唇の間から小さく声が漏れている。真っ赤な瞳は、何度見ても深紅の宝石が煌めいているようで。そんな顔で何を言われても、皮肉にしか聞こえないのに。

「嫌だったなら謝るよ、ごめんね」
「……いや、別に……そんな、気にするな。それより、ほら早く次のターン」
「そうだった、えっと、はい!」

 ……アレキサンドラが人を傷つけるような皮肉を言うわけないのに。しょんぼりと肩を落とす彼女に、アルマは慌てて話を逸らす。……というか、本筋に戻した。
 どうしてか、彼は自分の容姿に対する評価に極端な不快感を覚えていた。自分の顔は、決して綺麗などではない。
 毎朝鏡の前に立つ度に、胸の中で燻る何かが、醜い自分をじっと見ているような気がして。
ふと、差し出したカードから視線を移して顔を上げると、彼女は驚いたような困ったような、何か言いたげな顔でアルマを見ていた。

「……なんだ」
「えっ、と……アルマ、それでいいの?」
「?」
「大きい数字の方が弱いんじゃないの?」

 もう一度、視線を落とす。夜明けの空の色をしたユニコーンが、じっとこちらを見ていた。水滴の中に刻まれている「十一」の数字、彼女の炎の「十」――彼は何が起こっているかを全て理解した。

「お……っお前……! 謀ったな!」
「ええ……」
「今の話も全部、俺の意識をゲームから逸らす為だったって訳か……」
「もう! 違うって! 本心だもん……それよりほら、カードに指示書いてあるから! ダイス振って!」

 ぶんぶんと首を振る彼女を恨めしげに睨んで、わざとらしく溜息を吐きながらダイスを手に取る。角の丸い正六面体を手の中でころころと転がして、雑にテーブルに放った。
 敗れたカードに書かれた指示は「六が出れば相手二体を道連れにする」。残りの手札は、先に出すはずだった弱い数字しか残っていない。六以外の数字が出ればその時点で敗北は確定したようなものだ。今の彼に、六分の一を信じる気力は無かった。
 賽子は転がる。六つの数字を不規則に見せながら、不安定にふらふらと転がる。動きを止めたダイスの数字が二人の瞳に映ったその瞬間、騒がしかった声が一瞬静まりかえった。

「……ろ、六……」
「……二体道連れ、……えっと」
「……っ……勝った!」

 戸惑いの静寂を破ったのは、彼の歓喜の声だった。待ち望んでいた勝利に昂った彼の声は、今までに聞いたことのないくらい感情的で、心底嬉しそうに聞こえた。
 ぐっと拳を握りしめる様子は、控えめだが喜びを抑えきれていない。彼の珍しい笑顔に暫く唖然としていたアレキサンドラだが、自分の敗北を理解するなり、悔しそうにその表情が歪む。

「勝った……! ギリギリ……」
「ぐむ……アルマ、もう一回!」
「はは、いいよ、受けて立つ」

 いつものように膨れっ面で、悔しそうに拳を突き上げる彼女に、アルマは挑発的に微笑んだ。得意げなその表情はいつもより幾分か子供っぽい。
悔しいけど、その十倍くらい楽しい。膨れていた頬をいつの間にか萎ませて、アレキサンドラの表情は少年のような笑顔に塗り替えられていた。

「そういえば、明日からちょっと遠出するんだよね」
「ほう」
「出張だよ。視察と、遠方の貴族との会談とかでね」

 ばらばらにしたカードを掻き集めながら、アレキサンドラはふと思い出したように呟いた。相槌を打つ彼を見つめながら、集めたカードをトントンと机で整える。

「だからね、アルマに会えないんだよ。えっと、四、五、六……七日後かな、次に会えるの」
「はあ」
「ね、寂しくない? 六日も会えないんだよ。アルマ」
「……いや、別に」

 指を折って数えながら、少女は侘しそうに顔を傾ける。覗き込んでくる彼女から目を逸らしながら素っ気なく答えると、しょんぼりとつまらなそうに俯いた。青年の顔が苦い表情になる。どうも上手く言えない。口籠もりながら、漸く喉から出た声は小さかった。

「別に……六日なんて、すぐ過ぎるだろ」

 絞り出した言葉はぶっきらぼうで、だけど何処か優しい音だった。カードを配る少女の頬が、ぶわ、とほんのり薄紅色に色づく。嬉しそうに表情を緩めて、いつもの眩しい笑みが花開く。

「……そうかなあ、えへ……じゃあ、今日は会えない分いっぱい遊ぶ! アルマ、次はぜーったい勝つよ!」
「ふふ、俺も負けるつもりないよ」

 アレキサンドラの笑顔に、アルマは穏やかな微笑みで返した。その晩の密会はいつもより騒がしくて、いつもより楽しかった。


♦♦♦♦

 買い物を終え、安物のコートを羽織った青年は画材屋を後にした。薄雲の隙間からは、微かに陽の光が覗いている。湿った冷たい風に、アルマは首元のマフラーに顔を埋めた。足取りは決して真っ直ぐではない。彼は無目的に街を歩いていた。

「ああ、そこのお兄さん! 今、若い人がみーんなこの香水買ってくの。お兄さんもどう? 安くしとくよ」
「……ああ、今は結構です」

 城下から少し離れた市場は、華やかな城下町とはまた違った賑わいを見せていた。声を掛けてきた屋台の店主に、歩みを緩めて小さく頭を下げると、彼はまたぼんやりと足を進める。
 やることが無かった。一人でいるのなら、尚更のこと。普段はアレキサンドラと何をしよう、などと考えていたが、その目的が無ければ何もない。空っぽの身体が、風に煽られてふらふらと彷徨っているよう。実に空虚な人間だ。

「買って~! ママぁ、買ってよお」
「ダメ。この間買ったじゃない、新しいおもちゃ」
「前のは違うの! 今はこれなの、皆これ持ってるの!」

 玩具屋の扉を半ば乱暴に開けて、母親らしき女性が少年を引き摺って通り過ぎてゆく。少年の悲鳴を微笑ましく見送る者、迷惑そうに表情を歪める者。ふと、アルマは彼の指差すショーウィンドウへ歩み寄った。

「……艦船模型か」

 両手で持てるくらいの大きさの軍艦の模型。艶やかにグレーと赤、白で塗装されたそれは、ガラス越しにも大きな存在感を放っている。
 アレキは確か、軍艦が好きだとか言ってたな。こういうの、どうなんだろうか……好きなんだろうか――と考えたところで、アルマはハッとして首を振った。
 せっかく彼女と会えない間なのだ、彼女のことを考えないでいよう。そう思っていた矢先にこれだ――まあ、元は暗殺対象だったし、考えないというのも難しい話だが。
 どうしても、何を見ても、アレキサンドラの笑顔が脳裏に浮かんでくる。胸が痛む――そしてすぐに、それが嫌悪感と罪悪感であると気付くのだ。

「……ん」

 ガラス越しの軍艦を不愉快そうに眺める彼の目に、ふとそれは映り込む。子供向けの小さな絵本だ。可愛らしい……とは言い難い、何処か不気味な絵の上に、何となく聞き覚えのある文字が刻まれている。

「『アルマースの狼』……アレキの言ってた本か」

 並んで飾られている絵本の一冊――髭を生やした男が銀色の狼と向き合っているその絵本は、アレキサンドラが大事そうに抱えていた物と同じ題名だ。尤も、彼女が持っていたものは、もっと美麗で豪華絢爛に色付けられていたが。
 アルマは、その側に置かれた値札に視線を下ろす。決して安いとは言えないが、手に入れようと思えば出来る金額である。
 彼は決して金に困っている訳ではなかった。但し、「綺麗な金」とは言い難かった。懐の中にあるのは、暗殺者が嘗て命を奪った者たちから略奪したもの。魂を集めるため、生きるために奪ったものだ。
 だからこそ、自らの罪を赦さないアルマはそれらを使う度に罪悪感に苛まれているのだが。

「……まあ、自分の名前の由来くらい、知っておいた方が良いだろ」

 苦い顔で、彼は玩具屋のドアを押し開ける。からんからん、と薄っぺらいベルの鳴る音が響いた。

 喫茶店の奥の方、いつもスケッチの為に使う人目に付きにくい席に腰を下ろして、アルマは先程購入した新聞紙を広げる。芳しい湯気の立ち昇るコーヒーに角砂糖を二つとミルクを少々投入して、血色の悪い唇にカップを寄せる。
 一面にでかでかとアレキサンドラの載った新聞紙に隠して、アレキサンドラのお気に入りの絵本のページを捲る。程よい苦みと甘さが喉を通過する。もう一口、湯気立つコーヒーカップに口を付けて、灰色の瞳は瞬きを伴って左から右へ、左から右へと動いていた。

『昔々、あるところに王様がいました』――ありふれた一文から物語は始まる。とても賢く、民から愛された王様には一人の友人がいた。それが、「アルマース」、ダイヤモンドの瞳を持つ狼。

「……ダイヤモンドの瞳……」

 アルマースは夜に訪れる。アルマースは王様に沢山の知恵を与え、王様もまた、アルマースに知らないものや見たことの無いものを見せた。狼と王様は、毎晩楽しく語り合った。それはそれは、楽しい時間だったことだろう。
だが、それを許せぬ者がいた。

「……」

 お后様は、王様が毎晩アルマースと楽しそうにしているのを快く思わなかった。美しいお后様は、自分を差し置いて王様を誑かす薄汚い獣を許せなかった。
 ある夜、お后様は兵士を呼び、王様の目の前でアルマースを撃ち殺してしまった。

「……普通、殺される狼の名前、人に付けるか……?」

 友の遺体を前に、王様は深く悲しんだ。それはそれは深く、冷たい悲しみだった。しかし、王様は立ち止まらなかった。悲しみに沈み続けることを、アルマースは望まないと思ったからだ。
 王様はお后様を許した。そして、王様は親友の死を背負って、民の前に立ち続けたのでした――

「……なるほどな」

 王様の後ろ姿が大きく描かれたページを閉じて、アルマは小さく呟いた。まだ温かいカップを持ち上げ、一口飲み下す。
 納得がいく――と言うと微妙だが……殺されてるし。まあ、アレキがこの名を付けた意味は何となく分かった。
ある日、闇夜に現れた自分は、彼女にとって「アルマース」だったのだろう。狼がどことなく自分と被って、なんだか気恥ずかしい。
ふと、窓ガラスの向こうの街並みに視線を移す。荷物を抱えた親子が、よれよれの外套を羽織った老人が、視線の先を流れてゆく。ぼんやりと眺めるガラス越しの世界はいたって平穏で、まるで自分がその一部になっているような気さえする。
 コーヒーを一口飲んで、漸く半分になったカップをテーブルに置く。何かを思いついたかのように、アルマは目を細めた。新聞紙に隠れた彼の口元は、穏やかに緩んでいた。


「……よし」

 張り詰めた空気から漸く解放され、昼間に買った新聞紙の上に画用紙を乗せて息を吐いた。バケツ代わりのコップに絵筆を付けると、凝り固まった身体をぐい、と伸ばす。
 彼は数週おきに宿を変える。長居して不審がられない為だ。今回の宿は、隣人が静かで居心地が良い……とは言え、安宿の床はギイギイと軋み、天井には蜘蛛の巣が張っているのだが。
 床に置いたランタンの灯がゆらゆらと揺れる。揺らめく橙色を映した瞳は満足げで、らしくもなく口元は緩んでいる。白地に色鉛筆と絵の具で彩られた五枚の紙を眺めていると、ふと黒い塊が視界に飛び込んできた。

「あ、こら、レンゲ! それまだ乾いてな、あー……」

 ふらりと現れた子猫は、軽やかに部屋を跳ね回り、ぴちゃりと足裏の冷たい感覚に驚いて更に暴れ回る。咄嗟に叫んだ声は、届かずに途切れて諦めの色に変わった。

「……まあ、仕方ないけど……ほら、大人しくしなさい」

 捕らえた黒猫を抱き上げ、彼はその前足に付いた黒い絵の具をタオルで拭き取ってやる。画用紙に刻まれたレンゲの可愛い刻印に、アルマは呆れたように溜息を吐いた。
 移動した先の宿にも、何故か現れるか弱そうな子猫。最近はもう、旅の同伴者とも言えるくらいだ。ようやく落ち着いた猫は、にゃあ、と彼の胡坐の間で丸くなる。
 静かな夜。アレキサンドラに会えなくなって、もう三日が経つ。まるで心の中から何かが抜け落ちたような気がして、それを埋めるために彼は只管絵を描いていた。それに、筆を握っている間は夢中で、あまり彼女のことを考えずに済むし。
 乾いた画用紙を片付けて、硬いベッドに横になる。ふと、アレキサンドラの笑顔が頭を過った。目を閉じると、瞼の裏に遠くの地で奔走する彼女の姿が映る。
 寂しい、のか? これは。その問いを反芻して自己嫌悪に陥るよりも先に、その問いの答えを思いつくよりも先に、彼は睡眠薬によって齎された微睡みに飲み込まれていった。


♦♦♦♦

 静かな夜だった。
 尿意に襲われ少年が目を覚ました時、既に時刻は丑の刻を回っていただろう。屋敷には静寂が広がり、穏やかな風に草木が擦れ合う音が心地良い。大きな欠伸を一つ。
 少年は用を足して、ぼんやりと厠から自室への廊下を歩いていた。足を踏み出すたびに、床板はギシ、と不気味な声で鳴く。それも、秋の虫たちが騒ぐ音と合わさると、何処か趣深く聞こえるものだ。
 こんなに静まり返っていると、一つ一つの音がまるで辺りに響き渡っているかのよう。少し怖くて、少し面白い。耳を澄ませば、草陰で小動物が駆ける音、蝙蝠が羽ばたく音、遠くに鳥の鳴き声まで聞き取れる。

「あっ」

 それは、静まり返っていたので、少年には辺りに響き渡っているかのように聞こえた。悲鳴のような、決して意図して出した訳ではないような、人の声。女の人の声。厠へ向かう途中には聞こえなかった筈だ。頻りに聞こえてくる。
 少年は一瞬血の気が引いたように目を見開き、肌が粟立つのを感じた。身体を強張らせ、歩みの速度を上げる。
 怖い、早く部屋に戻ってしまおう……いや、誰かに知らせた方が良いだろうか。とにかく、先に部屋に――部屋を目視できるまで戻ったところで、彼はその声が近づいていることを認めた。そして、それを誰かに伝える必要が無いことを察した。

「あっ、ああっ」

 兄の部屋にぼんやりと明かりが点いている。自室の隣だが、眠かったし背を向けていて気が付かなかった。心臓の音がする。静まり返っていたので、破裂しそうな程早く刻まれる鼓動が、辺りに響き渡っているような気がした。
 少年は息を殺して、音を立てないように足を進める。部屋に向かっていた筈の足は、自室の前で止まらなかった――否、止められなかった。いけないのだと分かっていても、引っ張られるように足は隣室へ向かってしまう。
 声はそこへ近づくに連れて明瞭になり、薄い障子越しに部屋の奥からはその息遣いすら聞こえてきた。
 いけないことだと分かっていた。心臓が変な脈を刻んでいた。障子の開いた隙間から光が漏れている。少年は四つん這いになって身を隠しながら、恐る恐る声のする部屋を覗き込んだ。

「!」

 その瞬間、少年はまるで時が止まったかのように錯覚した。余りにも、その光景が美しかったからだ。
 白くて長い指に、さらさらと河のように流れる黒髪が絡まっていた。はだけた着物の下には、傷一つ無い白肌が橙色の灯りに照らされて、眩しいくらいに輝いて見えた。乱雑に剥がされた衣は、紙の上に絵の具を散らしたかのように鮮やかだった。
 紫苑色の細やかな髪の隙間から、銀色の瞳が覗いていた。充血した目は、身体の下の柔らかそうな肢体を見つめていた。紅を引いたみたいな唐紅の唇から息が漏れていた。笑っている。
 二つの身体が揺れている。兄の愉しそうな笑い声に合わせて、女は悲鳴のような、甲高く潰れた声で泣いていた。泣きながら、楽しそうに笑っていた。
 それは余りに綺麗で、美しくて、美しくて――酷く不快な気持ちになった。そこに居るのは兄なのに、ただの獣みたいで、それでも兄は美しくて、気持ち悪くなった。
 欲望に抗えないで、只管本能に動かされているみたいで。込み上げてくる吐き気を飲み込む。自分は「ああは」なりたくない。少年はぎゅ、と寝巻の裾を握り締めた
 時、銀色の瞳がこちらを見ていた。

「っ、ぃ」

 綺麗な顔が、こちらを見ていた。美しい顔が、こちらを見ていた。気づいたんだ、僕が見てしまったこと。美しい顔は、笑ったままだった。
 身体が動かない。息が出来ない。早く戻らないと。脚を動かしている筈なのに、目の前の景色は変わらない。

「っ、……っ、……!」

 綺麗な顔が見ている、こちらを、美しい顔が、こちらを、美しい顔が見、てこち、ら、を見て綺、麗な顔がを見て、こ、ちらをこち、らを美しい綺麗な顔が見てこちらを見こちらを美しい顔がこ


♦♦♦♦


「っが……!」

 目を開けたが、息が出来なかった。重い。鼻の上を覆う生暖かいものを退けて、アルマは飛び起きた。大きく息を吸って吐いて、胸いっぱいに行き渡った空気の冷たさに、彼はここが現実であることを確認した。
 顔の上でのんびりと寝ていた犯人は、動転している彼の指をぺろぺろと舐める。漸く落ち着いた呼吸で、彼は小さな黒猫を抱きかかえた。心臓は煩いくらいに爆音でリズムを刻んでいる。

「……レンゲ、人が寝てる時に、顔に乗ったら駄目。……まあ、今回は若干助かったけど」

 子猫を胸に抱くと、アルマは溜息を吐きながら言葉も通じないだろう小動物を諫める。同意を表すようなにゃあ、の声の後、間髪入れずにレンゲは彼の頬を小さく舐める。何とも言えない顔になる。
 久しぶりに、はっきりとした夢を見た――それは嘗ての記憶だが。以前、菊之助を思い出したあの夢のように。しかし、今のは前のより鮮明で、明瞭で――

「……あれは、兄上の……」

 ――綺麗な顔が見えた。


♦♦♦♦

 古びた街並み――それは決して廃れているわけではなく、どこか懐かしさを感じさせる。
 レンガ造りの家々が立ち並ぶ通りを眺めて、アレキサンドラは少し表情を緩めた。しかし、安堵の時は一瞬だ。後ろから聞こえてくる険しい足音に表情を引き締めると、少女の姿は屈強な兵士達に隠された。

「陛下、どうぞこちらもご覧になってください」
「ありがとうございます。わあ! 繊細な色使い……細部まで作り込まれていて、まるで宝石のようですね。ほら、姉上! 見てください」
「あらあら! 素敵ねえ! この花弁の所、光に翳すと映し出される色が美しいわ」

 アネモネを象ったガラス細工を手にし、アレキサンドラは驚嘆の声を上げた。その声色は一瞬子供っぽく上擦っていたが、紡がれる言葉は落ち着いている。彼女から受け取ったナターシャもまた、うっとりとガラスの花を眺めていた。
 一通り店の中と工房を見て回って、彼女らは店を後にする。大通りの店の前には、数多の人が押し寄せていた。扉を開けた先、兵士たちが必死の形相で民衆を抑えている姿に、少女は困ったように微笑む。

「アレクセイ陛下ー! どうか我々に更なる発展を齎して……ってえ!」
「ちょっと! 陛下のお顔が見えないわ! どいて!」
「おい! これ以上陛下にお近づきになるな! このロープから身を乗り出すな!」
「み、見えねえ……うわっ、押すなよ! 危ねえじゃ……うわあああ! へ、陛下がこちらにお手を振ってくださったぞ!」

 押し寄せる人々に優しく微笑みかけ、アレキサンドラは顔の傍で手を振った。一斉に湧き上がる民に、兵士たちの表情から血の気が引き、歓声と悲鳴がアンサンブルを奏でる。
 事前に張り巡らされたロープが切れてしまいそうな程に熱狂する人々。ここは辺境の街、十数年に一度の王の来訪に、町中の人々はその御尊顔を拝みに大通りに押し掛けるのだ。

「セレス、次の予定は?」
「この先のレース編み細工の店を訪問する予定です。その後、砦跡の遺跡の訪問ですね」

 斜め後ろを歩く秘書に声を掛けながら、アレキサンドラは再び顔を傾けて民衆に笑みを投げかけた。柔らかなブロンドの髪が太陽の光に照らされ煌めき、雪のような白い肌に濃い影を落とす。
 民に自分の姿を見せつけるように歩いたり、時折人だかりに歩み寄って握手をしたり、なかなか足は先に進まない。白く輝いていた太陽が雲の後ろに隠れ、冷たい風がふわりと髪を揺らす。寒空の下、闊歩する美少年に人々は目を奪われ――

「おいビンボーニン! お前なんかが王さま見に来るんじゃねーよ!」

 喧噪の中に紛れた幼い声に、アレキサンドラは歩みを止めた。確かに彼女の耳に届いたその言葉は、押し掛ける人々のその向こうの方からだ。

「ビンボーは家で仕事してろ!」
「ひっ」
「そうだそうだ、そんなカッコで王さまの前なんか行けねーだろ!」

 兵士の間に割り込んで、アレキサンドラはロープを跨ぎ乗り越える。秘書と姉の戸惑った声を背に、民衆の間を通り抜けてゆく。
驚いていたのはセレスとナターシャだけではない。困惑する兵士、王のただならぬ雰囲気に思わず口を閉じる大衆。彼女の歩み寄った先には、二人の少年の前に蹲る痩せた少女の姿があった。

「! ……お、おうさま……」
「あれ、君……上着も羽織らないで随分と寒そうじゃないか!」
「……っ! え、と……あの……」
「そうだな……じゃあ、はいこれ。君にあげるよ」

 凍り付く二人の少年をよそに、彼女は少女の前に跪いた。少女のジャスパーグリーンの瞳を覗き込むと、アレキサンドラは徐にコートを脱ぎ始めた。
 サックスブルーの分厚いコートを差し出して、彼女は柔らかく微笑みかける。虚ろな少女の目がコートとアレキサンドラを行ったり来たりして、やがて俯いて困ったように口を開いた。

「? どうかしたかな?」
「……あっ、あの……こんな……高価そうなもの、い、いただけません……」
「ああ、良いんだよ。代わりのコート持ってるから。寒いでしょう?」
「わ……わたし……」

 差し出したコートを少女の肩に掛け、アレキサンドラはその細い手を取った。

「貧しいからって虐げられることはないんだ。だから受け取ってほしい。それに……こうやって人々が貧困で苦しまないよう、僕は国を変えるよ。どうか僕を信じて待っていてくれないかな」

 燃えるような赤い瞳は、真っ直ぐに少女を捉える。彼女が見上げた先の王様の背後で、薄雲から太陽が顔を出す。
息を呑む。柔らかな日差しを背に受けた美少年はこの世のものではないようで――そばかすの多い少女の頬がぶわ、と紅色に染まる。

「あ……あり、がとう……ございます……!」

 彼女が頭を下げた頃には、血色の悪かった顔は耳まで真っ赤になっていた。アレキサンドラは小さく笑うと、へたり込む彼女を前に立ち上がった。ばつの悪そうな顔で傍に立ち尽くしている少年たちに視線を移す。
 顔の良く似た……恐らく双子らしい彼らの表情は、自分が非難されたと感じたのか不服の色が滲んでいる。そんな彼らに良く効く秘密道具を、ポケットの中に持っている。

「……君たちもこの子も、皆同じなんだ。だから虐めないであげて、助けてあげてほしい」
「……う」
「そうだ、もしそうしてくれるなら、これをあげるよ。はい」

 不満げに口を尖らせる少年に、アレキサンドラはズボンのポケットから、掌に乗るくらいのキャンディーの缶を取り出した。軽く振ると、ガラガラと荒い音がする。
 蓋を開けて彼女が手のひらに落としたのは、宝石の形に削られた透明な二粒の飴。光に照らされると、淡い水色とピンクが見える。何気なく手に取ったそれに、少年たちは目を丸くした。

「えーっ! それ! 伝説のエターナルクリスタルじゃん! 二つも!」
「そうそう、グリュックのキャンディー缶に偶に入ってるんだったかな」
「五十缶に一缶しか入ってないのに! おれ見たことすらないや、王さますげーっ!」
「自分が嫌なことを人にしないこと、ちゃんと約束できる?」
「うん!」

 目を輝かせて声を上げる少年たちに、優しく問い掛ける。元気の良い返事ににっこりと目を細めると、アレキサンドラは彼らの手に一粒ずつそのキャンディーを乗せた。
 はしゃぐ双子の少年が、その母親だと思われる女性に慌てて引き摺っていかれる様を見ながら、彼女は手を振る二人に手を振り返す。呆然としていた民衆が、時が進み始めたように再び騒めき始める。

「……陛下、お気を付けを。民衆の中に陛下を狙う者が居ないとも限りませんから」
「次からは気を付けるよ」
「ふふ、あの女の子、今のでアレクに惚れちゃったかもしれないわよ」

 流石に露骨に「美少年」しすぎたかな。セレスの持つ黒い外套に腕を通しながら、アレキサンドラは苦笑いした。隣のナターシャは、くすくすと可愛らしい笑い声を零す。
 「陛下を狙う者」。ふと、アルマを思い出す――否、本当はずっとアルマのことを考えていた。もう三日、彼と会わない日々が続いている。
 胸の中がひんやりと冷たくて、吹き抜ける風がいつもよりずっと寒く感じる。でも、ボクは王様でいなきゃ。抱き締めてくれる彼の温もりを思い出して深く息を吸い込む。
 アルマに会えるまで、あと四日。寒くて寒くて堪らなくて、アレキサンドラは小さく身震いした。


「……つかれた……」

 部屋に戻るなり、アレキサンドラはベッドに俯せで倒れ込んだ。ふかふかのベッドは彼女の身体を押し返し、ぼふんと跳ねる。
 一日の業務を終え、伯爵らとの会談、会食、それが終わって漸く入浴。白い寝巻に身を纏った彼女の髪は、まだ乾ききっていない。

「……嘘つき、寂しいよ……アルマ」

 枕に顔を押し付けて、アレキサンドラは小さく呟く。三日間、まともに気が休まることはなかった。何処に行っでも誰かに見られていて、ずっと王様でいなくちゃいけない。当然、そんなこと頑張ったって褒めてくれる人はいない。
 王家の別邸であるこの部屋もそう。一挙手一投足をずっと誰かが見ているような気がする。だから遠方は嫌い。彼女の身体は、まるで死んだかのようにぐったりとベッドに沈み込んだ。

「……アレキ、ちょっといいかしら」

 ノック音に身体を起こす。柔らかな声色は、ナターシャのものだ。もう持ち上がらない腕を何とか持ち上げて、動きたがらない足を無理やり動かして、アレキサンドラはドアへと向かった。
 扉の向こうの姉は、緩くウェーブした美しいブロンドを束ね、薄紅色のネグリジェに身を包んでいる。疲れを隠した妹の笑顔に、ナターシャは優しく微笑みかけた。

「ちょっとチェスでもしましょう。姉妹水入らずで、ね」
「チェス? へえ! 良いですね」

 柔らかなソファに腰掛けて、姉妹はチェステーブル越しに向かい合う。カモミールのハーブティーを一口飲んで、アレキサンドラは黒のポーンを動かした。

「なんだか久し振りね、二人でこうやってゆっくりするの……アレキが即位してから、ゆっくり話をする時間もなかったものね」
「ふふ、確かに」

 白のルークが二マス進む。カモミールの落ち着く香りの中に、シナモンがアクセントのように香る。盤上を暫く眺めて考え込んだ後、彼女は黒のナイトを動かした。
 チェスは得意な方だ。嗜みとして覚えさせられたし、よく会談の場で行うから。特段好きではないが……どうせ毎回勝ってしまうので。

「……そういえば、姉上、……その、男爵の御子息とは、その後どうでしょうか……」
「……それがねえ……はあ……」

 ふと、アレキサンドラが気まずそうに切り出した言葉に、ナターシャは溜息を吐きながら頬杖をついた。悩まし気な吐息に、端麗な顔は崩れるどころかより一層耽美さが増す。
 その表情は曇ってはいたが、以前のそれとは違っていた。彼女はもう一度小さく息を吐き、桃色の唇の隙間から言葉を紡ぎ始めた。

「この間のお勉強会、また嫌味を言われたの。『所詮顔しかない』とか『君といると菓子の味が不味い』だとか……余りに態度が酷いから、男爵に謝られたわ」
「……ボク、そんな人と姉上が一緒にいるの、割と本気で止めたいのですが……」
「いえ、いいのよ。それにあの人にも理由があるみたいだから……」
「理由?」
「男爵に聞いたわ。カッツェ様のあれは、母君が男爵と自分を置いて、他の男と駆け落ちしたのが原因なんですって。それで、女性を遠ざけるらしいのよ」

 白のクイーンが動く。自分に向けられた悪意ある言葉を追想しながらの姉の表情は、存外穏やかだった。声色は、何処か「ちょっと困ってる」という響きである。
 黒のキングを左に。心配そうに、何処かその意中の相手に呆れたようなアレキサンドラに、ナターシャは苦笑を返した。ティーカップに口を付けて、一口程飲み下す。

「ああ、悪いことしか言ってないけど、カッツェ様だって良いところはあるのよ! 私の容姿のことは絶対に貶さないの、優しいでしょう?」
「や、さしいですか……?」
「私の容姿には非の打ち所がないものね。つまり、思ってもないことは言わないのよ!」

 少し考えて、白のポーンが進む。姉の無茶苦茶な理論に、アレキサンドラから戸惑ったような、呆然とした声が出る。恋は盲目とは、こういうことを指すんだなあ……。
 一方のナターシャは、きらきらした瞳で妹に同意を求める。彼女はただ、意中の相手の性格の悪さをアピールしただけである。しかし、その表情はアレキサンドラにはない、生き生きとした顔だった。

「だから、この美しさを利用する他に策はないと思うわ。その辺り、うじうじしても仕方ないしね」
「まあ……姉上が悲しまないのであれば、良いと思います」

 黒のビショップを動かす。以前はあんなに萎れていたのに。もっと酷いことを言われても、今のナターシャは凛と咲くアンスリウムだ。喜ばしい反面、少し不思議だった。

「……あの、ボクに恋は分からないですが、姉上はすごく……カッツェ殿のことが好きなのですね」

 白のキングが左後方に。他愛のない言葉だった。ナターシャは一瞬きょとんと目を見開くと、口元を緩める。
 次の手を考えていた彼女の前で、その蕾は思いもよらないくらいに鮮やかに花開いた。

「……ええ、好きよ。とても好き」

 咲き誇るベニゴアのように。白い肌にふわりと紅色が差して。長い睫毛がきらきらと揺れて。困ったように少し下げた眉と、幸せそうに細めた赤い瞳に、アレキサンドラは目を奪われた。
 「恋」だ。

「あんな感じだけど、飼い犬のトレニアに向ける視線はとっても優しくて、素敵なのよ」
「なるほど……」

 アレキサンドラは、アルマのことを思い出していた。
 ボクがアルマに抱く「好き」は何なのだろうか。アルマの言うとおり、「好意」なのか、それとも目の前の姉上のような「恋」なのか、それとも別の何かなのか。
 ボクはアルマの顔が好きだ。綺麗だし、普段はあんななのに、時折ボクを見る目が優しくなるのが嬉しいから。
 ボクはアルマの優しいところが好きだ。優しすぎるくらいに優しいアルマが好きだ。嫌がりもせずに抱き締めてくれるし。それに、いつも優しい良い匂いがする。
 でもボクは、姉上のような表情が出来るだろうか。あんな風に、人を想えるだろうか。ボクがアルマに「好き」と言う時は、どんな顔をしているだろうか。
 「好意」って言われると、当然すぎて何か違う気がする。でも、ボクの「好き」は姉上のそれと同じではない気がする。
 考えるだけで胸がきゅっとなって、嬉しくて温かくて堪らなくて、「好き」が口から出てしまうのは何なのだろうか。そもそも、「好き」はそんな軽々しく言葉にできるものなのだろうか。
 ボクはアルマのこと、本当に「好き」なんだろうか……

「えっと……」

 ぼんやりと考え込みながら盤上の駒を動かしていると、目の前の姉が戸惑った顔をしていることに気が付いた。アレキサンドラが頭上にはてなを浮かべていると、ナターシャははっとしてチェス盤に視線を落とす。
 それを追って見下ろした先の光景に、少女の表情は固まった。

「じゃあ……チェックメイト!」
「……あ、あれ?」
「……っやった! ウソでしょ? ホントに? はっ、初めてアレキにっ! 勝った……っ!」

 不意に立ち上がって両の拳を突き上げ、珍しく品の無いガッツポーズを決め込む姉の前で、アレキサンドラは動揺を隠せなかった。盤上から目が離せない。気付かぬ間に、追い込まれていたのだ。
 ナターシャは誰も見ていないのに焦ったのか、再び着席すると座ったまま戦慄いている彼女に視線を送る。その表情は勝利の喜びを隠し切れないのだろう、口元が緩んでいる。

「アレキ、何か考え事でもしてたの?」
「え、いや……」
「誰の事を考えていたのかしら」
「誰って……べ、別に大したことでは」
「あら! 『誰』を否定しないってことは、誰かのことを考えてたのね!」

 困惑しすぎて、見事に誘導尋問に引っ掛かった。きらきらと目を輝かせるナターシャの前で、アレキサンドラは苦い顔をした。姉上、結構恋愛脳なのか……。

「で、誰なの? グラナ? アレキの好きな人」
「いや、好き……とか誰とかじゃなくて……グラナでもなく……」
「観念なさいアレキ、グラナにも秘密にしておいてあげるから!」
「普通に国政の事ですよ! ……まあ、強いて言うなら国民の事です」

 妹が発した恋の香りに、ナターシャはピンク色の声で飛びついた。姉妹で恋の話なんぞしたことが無かったからだ。しかし、その頃には漸くアレキサンドラも冷静さを取り戻しており、呆れ返った表情でソファに背を預けている。
 その後も暫く、彼女は姉からの問答を上手く躱し続けた。誤魔化すのは難しいことではない、けど。
 アルマへの「好き」を否定するのは何だか心苦しかった。
 満足そうに部屋を出て行ったナターシャの背中を見送って、アレキサンドラは疲れ切った表情でハーブティーを飲み干した。
 アルマに会えるまで、あと三日。冷える身体をぎゅ、と自分で抱き締めた。

♦♦♦♦


「……できた……」

 六日目の夜。出来上がった絵本を眺めて、アルマは思わず静かに歓喜の声を漏らした。絵本と言えど、画用紙同士を糸で縫い合わせたものに、色紙の背表紙を糊付けただけの簡素なもの。カラフルに彩られた画用紙が、ページの隙間から覗いている。

「はあ……間に合ってよかった……」

 風呂上がりの髪はまだ少し濡れている。立ち上がって伸びをすると、緊張と集中の代償がどっと下りてきた。数日分の疲労感と、抗いがたい睡魔。今晩は薬も要らないな。レンゲもいないから、絵本は部屋に放っておいても大丈夫だろう。
 倒れ込むようにベッドに潜り込むと、微睡む間もなく瞼が落ちてくる。明日は、アレキに会う。短いようで長いような六日間だった。寂しいとか、寂しくなかったとか、考える前に意識は暗闇に落ちていった。


♦♦♦♦

「アルマ」

 聞き慣れた声に、目を開けた。ベッドの上だった。

「ね、アルマ、あるまぁ」

 ふと、声のする方を、自分の下を見た。その瞬間、心臓が爆発するような音を立てた。

「……は?」

 身体の下で、アレキサンドラの小さい身体がベッドに沈んでいた。
何 も妨げるものの無い、傷一つ付いていない肌は雪の様に白くて、肉が薄い所為か肋骨が浮き出ている。柔らかな脚が必死そうに自分の腰に絡みついている。
 訳が分からなかった。何か思考しようにも、思い出そうにも途端に考えるのをやめたくなる。目を見開いて狼狽えているアルマに、少女は子供の様にその両手を伸ばしてきた。

「あるま……あのね、ぎゅーって……して」

 コーラルレッドの唇の隙間から零れる甘ったるい声。耳まで赤くして、淫靡に潤んだ深紅の瞳が彼の姿を映す。訳が分からないうちに、彼女の腕が首の後ろに回った。

「すき……アルマ、好き、大好き……あ……」

 汗ばんだ身体が触れ合って、肌が吸い付く感覚。耳元で囁かれる聞き慣れた言葉が、いつもと違う意味を含んでいた。か細く漏れる声。
 これは夢だ。アレキはそんなこと言わない。アレキはそんな顔で笑わない。
 俺は、こんなことしない。

「あるま……あるまぁ……っ、あぅ……好き……すきすき……だいすき……」

 悪夢だった。夢だと分かっていても、縋ってくる彼女を拒否できない。夢だと分かっていても、耳元で何度も何度も名前を呼ばれるたびに、理性がじりじりと焼かれていく。
 理性と欲望と吐き気と眩暈がぐちゃぐちゃに混ざり合う。こんなのは違う、早く、早く覚めろ。ぐちゃぐちゃに混ざりあった中から吐き気が勝って、食道を逆流する嘔吐感に頭が真っ白になる――


♦♦♦♦

「――――っは……っ!」

 目を開けると、視界に薄汚い天井が広がっていた。
 勢いよく上半身を起こす。心臓は爆音で鼓動を刻んでいる。上手く息が吸えない。肺に酸素を入れようと大きく肩を上下させながら、アルマは小刻みに震える右手で煩い左胸を抑えた。
 気持ち悪い。息苦しさと同時に遡ってくる胃液の感覚。冬だとは思えない量の汗で身体がべたついている。手の震えが止まらない。
 その夢は余りに生々しくて、声も感覚もすべて鮮明に思い出せる。それが不快で不快で堪らない。なにが不快って――

「……なんだ、もう目覚めたのかい」
「……!?」

 脳髄を溶かすような声。暗闇の中でも取分け漆黒の黒髪が、ベッドの端で揺れる。こちらを振り返ると、恐ろしいくらいに美しい顔が微笑んでいた。

「お……お前の、仕業か……っ!」
「やだなあ、なんでも僕のせいにしないでくれるかな。今晩は邪魔が無いから、僕はたまたま君の様子を見に来たんだよ。君はすっかり寝てて魘されてるから、見守ってただけ。何に魘されてたのかも知らない」
「……っ」
「……まあ、察しは付くけどね」

 気が付けば、動悸も呼吸も吐き気も治まっていた。冷たい笑みを浮かべた悪神の視線が、薄い毛布の下、彼の下半身へと下がる。
 面白いものを見つけたかのように、悪神の口元が悪辣に歪む。瞬きの間にアルマの首元に腕を絡ませ、後ろから耳元に顔を寄せた。逃げられなかった。

「僕に押し付けようとしたみたいだけど、残念。それは君が自分で見た夢だ」
「……違……っ」
「君がそう望んでるんだ。そうでしょう? それは、君の欲望だよ」

 逃げたかった。逃げられなかった。
 自分が彼女を屈服させたいなど、我欲のままに傷付けたいなど、思っていないと思っていた。思いたかった。否定したかった。するり、と毛布の中に右手が滑り込む。

「……違う、これは……っこんなことを、俺は……!」
「我慢する必要なんて何処にあるんだい? 良いじゃないか、健全な男子である証拠でしょう?」
「……嫌だ……俺は違う、違う……」
「……君は『彼女』を組み敷いて、犯したいんだ」

 嫌だった。頭の中が、アレキサンドラでいっぱいになってしまうのが。頭では分かっているのに、身体が反抗する。
 綺麗な顔が、こちらを見ていた。

「ちが、う……っ、これは、違う……っ」
「……屈服させた愛しい『彼女』の唇に口付けて、舌を絡ませて」

 銀色の瞳が、こちらを見ていた。
 美しい顔が、こちらを見ていた。
 
「……『彼女』の小さな身体と繋がって、啼かせて」

 違う。兄上と自分は。決して同じではない。

「……欲望のままに『彼女』を抱いて、気持ちよくなって」

 俺は兄上とは違う。美しくない。醜いのだから。

「……もっともっと滅茶苦茶にして、『彼女』の身体に己を刻みつけたい」

 「ああは」なりたくなかった。欲望に抗えず、本能に動かされるままの自分なんて、只の醜い獣でしかないのだから。

「……そうやって乱れた『彼女』を、壊したいんでしょう?」

 綺麗な顔が、こちらを見ている。美しい顔が、ずっとこちらを見ている。
 銀色の瞳が自分を見ながら、「お前は醜い」とずっと笑っているのだ。

「ま、僕はその勢いで『彼女』を殺してくれたら嬉しいんだけどなあ」

 悪神が愉快そうに笑う声が、静寂の中で響き渡っているかのように聞こえた。


♦♦♦♦

 開け放たれた窓の枠に頬杖を突きながら、アレキサンドラはぼんやりと外を眺めていた。冷たい風が柔らかいブロンドを撫でて、ふわりとシャンプーのグリーンアップルが香る。
 七日目の夜。バタバタと足を揺すった。とく、とく、と胸が小さく高鳴っている。早く、早く会いたい。
 風の音が聞こえた時、闇に紛れるその姿を視認した。

「……アルマっ!」

 窓から足を下ろした彼に、アレキサンドラは勢いよく抱き付いた。ぎゅう、と強く抱き締めて、顔を胸に押しつける。ふと見上げると、アルマが困惑した様子で目を泳がせていた。

「え、あれ、嫌だった?」
「……ああいや、別に……嫌じゃない」

 戸惑ったように紅い瞳が哀しく揺れるので、はっとしたように微笑んで抱き締め返す。安心して体重を預けてくる彼女を見つめながら、彼は表情を曇らせた。
 ……アレキに抱き締められた時、酷い罪悪感と後ろめたさがあった。彼女の笑顔に昨晩の夢が重なる。自分の想像したことが重なる。「お前は醜い」という声が頭の中で響く。

「……アルマの嘘つき。寂しくて寂しくて、死にそうだったんだよ」

 頬を膨らませて、自分の胸の中から見上げて睨んでくる少女の瞳に、自分の姿が映り込む。じんわりと胸が温かくなる感覚。
 ……大丈夫。本人を前にすると、意外と邪な感情は沸いてこない。これは夢じゃない。その存在を確かめるように、彼の腕の強さがぎゅう、と強くなる。

「……そんなにか?」
「だよ! それに、あのね! 話したいこといっぱいあるんだよ! 一日目はウルイの街に行ってね、教会の礼拝に参加して……」
「分かった分かった、ゆっくり聞くから……ゆっくり話せよ。ほら、一旦離れて」
「やだ! もうちょっとぎゅーってしてよ! ふへ……」

 きらきらした笑顔で、アレキサンドラは興奮気味に話し始める。言うことを聞かない我儘な子供は、頭を撫でると気の抜けた笑い声を上げた。
 彼の腕の中で、胸に顔を押し付けて、胸いっぱいに息を吸い込む。温かくて気持ち良くて、良い香り。大きな手が頭に触れると、心臓の音が少し早くなる。伝わってくるアルマの心臓の音は自分よりもゆったりしたテンポで、重なる鼓動が心地よい。

「それでね、ずっと見られてるから、ボクは一秒たりとも気を抜けないんだ。もうほんっと疲れたあ……これだから遠方の視察嫌い……」
「はは、お疲れ様。……相変わらずアレキ、事前の勉強量が凄いな。机に積んでる本、全部今の話に出てきた街のだろ」
「えっへん! ボク頑張ったよ!」
「……ああ、いつも上から目線で申し訳ないが、偉いな」
「えへへ……ふふ……」

 ソファの隣に腰かけるアレキサンドラが、疲れ切った様子で凭れ掛かってくるので、ぽんぽんと頭を撫でる。気の抜けた声からは、ひしひしとその疲労が伝わってきた。だけど、見下ろした先の少女は頬を染めて、緩み切った表情は心底幸せそうだ。
 彼の言葉の一つ一つが、胸をどきどきさせる。穏やかな声色、優しい瞳、頭を撫でる柔らかい手つき。ふざけた態度も茶化さないで、全部包み込んでくれる。
 ああ、アルマは、「言ってほしいこと」を的確に、むしろそれ以上嬉しいことを言ってくれる、そう思ってくれるんだ。ほっぺたが熱くなる。そこが好きなんだ。

「あ、そうだ! お土産があるんだった!」

 不意に、でろでろに溶けていた彼女は勢い良く立ち上がった。元気な子犬のように走り回ると、嬉しそうに飼い主の足元に戻ってくる。ぶんぶんと激しく尻尾を振っているのが見える。

「えっとね、まずは……じゃーん! これはキャラメルのフレーバーティー! 今一杯淹れてるから待ってね。あと、これ!」
「……、これは……」
「フォフォのお店で見つけた、黒猫のペンだよ! ほらここ、猫耳が可愛いでしょ!」

 黒地に金色で猫の柄が彫られたペン。天冠には可愛らしい猫耳の装飾が施されている。手渡されたそれを手の中で何度も回して、アルマは思わず声を漏らした。

「……可愛い……」
「食べ物とか飲み物でもいいけど、何か形に残るものを渡したくて!」
「……礼を言う、ありがとう……、あ……そういえば、俺も……」

 珍しく、柔らかな笑みを浮かべる彼の瞳は、少し輝いていた。もう一度、一頻りペンを眺めた後、大切そうに布に包んでウエストポーチに入れ――ふと、そこで何か思い出したようにポーチを探り、丁寧にそれを取り出した。

「こんな良いものを貰った後で申し訳ないが……」
「――うわあ! え! 何これ! アルマが描いたの!?」
「……まあ、暇だったから」
「わああ! もしかして、これってボク? すごい! すごいすごい! 読んでいい!?」

 『アルマースの狼』と題された絵本を手に取って、アレキサンドラは甲高い声を上げた。その表紙には、可愛らしくデフォルメされたアレキサンドラの姿があった。
 彼の膝の上にどかりと座ると、彼女は本の表紙を捲る。色鮮やかで柔らかな色彩が、そこには広がっていた。

「可愛い……すごい……綺麗……あ、これはレンゲの足跡? 可愛いー!」
「ああ、急に飛び込んできて踏まれたやつ」

 思わず見惚れてしまう。見入ってしまうほどに、温かくて優しい絵。物語がキラキラ輝いているみたい。歓喜の声を漏らす少女の後ろで、アルマは照れ臭そうに口元を歪めている。
 王様・アレキサンドラの親友である、ダイヤモンドの瞳を持つ狼・アルマース。二人は毎晩、楽しく語り明かす。美しい花の花言葉のこと、食べたことのないもののこと、異国の景色のこと。
 しかし、そんな二人にやきもちを焼いた姉が二人の密会に割り込んでしまう。

「あっ、姉上だ! ……って、あれ? 話が変わってる?」
「……ああ、主人公がアレキだし、原作の結末は辛いから……少しでも幸せな展開が良いかと思って……」

 アルマースを殺そうとした姉を前に、王様アレキサンドラは弁明する。ああ、アルマース! この人こそボクが前から言っていた姉上だよ! 姉は驚き戸惑い、思わず兵士も銃を下ろしてしまう。
 誤解を解いたアルマースは、王様とその姉と三人で色々なことをした。お茶会にテーブルゲーム、見たことのない場所への旅――そうして、末永く幸せに暮らしましたとさ。

「はあ~……すごいや……えへへ、アルマ……ありがとう! 宝物にする!」
「……なら良かった」
「世界に一冊だけの、ボクだけの本! ボクだけの本だから、しっかり金庫に入れておかなきゃ!」

 ぱたん、と絵本を閉じて、アレキサンドラは目を伏せ余韻に浸った。感嘆の溜息を吐いて、満開の笑みでアルマを見つめると、穏やかに目を細めるアルマと目が合った。
 爛々とスキップしながら、三重の金庫の最深部に絵本を大切に仕舞う。嬉しそうに跳ねる彼女の背中を眺めながら、彼は微笑んでいた。
 胸の奥がほっこりする。自分の手で彼女が笑顔になった事実が「嬉しい」。アレキサンドラと出会うまではあまり抱かなかった感情が、どんどん溢れてくる。
彼は堪らなく幸せだった。ずっとその笑顔を見ていたかった。こっちを見て弾けるような笑みを浮かべて、胸に飛び込んでくる少女を抱き締める。伝わってくる体温も、グリーンアップルの香りも、小さな笑い声も――愛おしくて堪らなかった。

「あ、そう言えばね、姉上にアルマのことがバレそうになったんだよ」
「は?」
「姉上とチェスをやってる時に、アルマのことを考えてたんだ。そうしたらぼーっとしちゃって負けちゃってさあ……何考えてるのって聞かれてちょっと危なかったよ」
「気を付けてくれよ……」

 キャラメルの紅茶の甘い香りを飲み込んで、香ばしい風味を堪能する。隣でゆったりとソファに凭れるアレキサンドラは、リラックスした様子でもう一つの土産であるチョコレートを口に放り込んだ。
 相変わらず、恥ずかしげもなく何でも言葉にするんだよな。それすら微笑ましくて、口元が緩んでしまう。嬉しくて、彼女の言葉の一つ一つに耳を傾けた。

「何を考えてたのかっていうとね、姉上の恋の話を聞いたんだ。だから、ボクがアルマのことを好きなのは何なんだろうって考えてた」
「……本人を前にして、よく躊躇いもなく言えるよな……」
「えへ、だからね、ボクは姉上みたいに、アルマに『恋』してるわけじゃないんだなって」

 その言葉の瞬間だった。
 頭を殴打されたような白い衝撃の後、ふっと目の前が暗くなった。焦げるような、じわじわと侵食する痛みがあった。
 この痛みに、覚えがあった。

「アルマ?」

 本当はずっと自覚していた。認めたくなくて、ずっとその事実から逃げていた。
 それで十分だった。それ以上何も望まなかった。
 ただアレキサンドラの純粋な「好き」を享受していられたら、それで――

「……っああ、いや……何」
「? そう、だからこのアルマへの「好き」が何か、早く分かったらいいなあ」

 見上げてくる赤い瞳も、白い顔の頬がほんのりと赤いのも、はらはらと揺れるブロンドも。
 楽しそうに弾む声も、眩しい笑顔も、我儘も、子供っぽい所作も、全部全部。

「本人の前で、それ言っていいのか?」
「ふふ、だってボク、アルマの事好きだもん! それは違いないよ」

 俺はアレキのことが好きだった。ずっと前から、大好きだった。
 真っ直ぐに笑顔を向けてくれるアレキサンドラに、ずっと恋をしていた。

「ね、アルマ! もう一回ぎゅーってして!」

 この痛みに、覚えがあった。叶わない恋を、諦めるべき恋を自覚する痛みだ。

「……仕方ないな、ほら」
「ああ……やっぱりボク、アルマが好き……大好きだなあ」

 彼女の細い身体をぎゅう、と抱き締めて、アルマは優しく微笑んだ。
 この恋は、決して告げることのない恋だ。ずっと秘めていなければならない恋だ。
 焼けるような焦げるような、じわじわと侵食する痛みに、アルマはふわ、と目を閉じた。


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[2020/04/02 23:34] | ダイヤモンド・ライト | トラックバック(0) | コメント(0)
-7- ワルツ・オブ・シトリン
 開け放たれた窓から冷たい風が吹き込んでいる。
 机に頬杖を付きながら、アレキサンドラは先日のことを思い出していた。彼の声も言葉も、腕の力強さも温もりも、石鹸みたいな優しい香りも、思い出すと胸の奥がじわじわと熱くなってくる。思わず口元が緩んでにやけてしまう。
 こんなにも胸が高鳴るのは、彼を待っているからだ。たかが数日の会えない日でさえ、待ち遠しくて長く感じてしまう。漸く会えるとなると、疲れも悩みも忘れて頭の中はアルマのことでいっぱいだ。

「……っ! アルマ!」
「……随分元気そうだな、アレキ」
「えへ……」
「……はあ、分かった……はい」
「わあい!」

 窓から降り立つなり、アレキサンドラはまるで飼い主を待っていた子犬みたいに駆けよってきた。きらきらした瞳で見上げてくる視線からは、溢れんばかりの期待が込められている。諦めにも似た表情で溜息を一つ吐くと、小さく微笑んで両手を広げた。
 勢いよく胸に飛び込んで抱き着くと、アルマは優しく抱き締め返してくれる。暖かさと落ち着く香りに、彼女は嬉しそうに目を細めた。

「今日はね、すごい忙しかったんだ。朝は海軍の表彰式の参列、、お昼は大臣との会合、夕方からは国王宛ての申請の確認! もう目が回りそうだよ」
「うわ、子供が押し付けられるレベルじゃない激務だな……今日もお疲れ様」
「へへん! でもね、ボク海軍のところへ行くのは好きなんだ。船とか制服とか、かっこいいしね」

 いつもの優しい声に、アレキサンドラは彼の顔を腕の中から見上げて、得意げに笑う。頭に回った手にすりすりと撫でられると、嬉しくてもっと抱き着いた。伝わってくる鼓動が少し早くなるのが分かる。
 先の一件から、彼女の距離がやたらと近い。どうしたものか……と思いつつ、背伸びをする彼女の頭を撫でてやる。頬を染めて見つめられると、流石に恥ずかしくて目を逸らした。
 柔らかな髪が撫でる指の間に絡まって、またするりと解けてゆく。少女の髪からは、淡い石鹸のような――子供の匂いがした。こうしているのは嫌ではない……寧ろ、彼女の話を聞くことに心地よさすら感じている。そして時折、ぎゅう、と胸が痛むのだ。

「じゃーん! 今日のはね、イチゴとシャンパンのフレーバーティーだよ」
「良い香りだな……いただきます」
「あっ、アルマ! ねえ、これ見てもいい?」
「……う、まあいいけど……」

 ソファにゆったりと腰掛けて、彼はティーカップに口を付けた。隣で画帳を手にする彼女彼女を、何とも言えない微妙な表情で眺める。ぺらぺらとページを捲りながら、アレキサンドラは食い入るように白い紙の上の絵たちを見つめている。
 人に絵を見せるというのはあまり得意ではない。……というか、そもそもあまり自分の絵に自信がなかった。誰かが自分の絵を見ているとき、記憶の奥底で誰かの呆れた声がするようで。

「あっ! これ! ねえアルマ、ボクこれ好き!」

 そんな何処の誰かも分からない声は、突き抜けるような明るい声で掻き消される。目を輝かせて真っ直ぐに見つめて、フリルをあしらったドレスを身に纏う少女の絵を見せつけてきた。思わず少し表情が緩む。

「それは……街で見かけて興味深いなって……思い出して、描いた」
「へえ~! 可愛いなあ、ボクね、フリルの服好きなんだよ!」

 若者に流行しているのであろうそのドレスは、派手すぎない感じが街の風景にも馴染んでいる。膝丈のスカートの下、編み上げたロングブーツがよく映える。

「……アレキは、こういうの着たいのか」
「え、ボク? あはは、流石にこういうのは着ないかなあ。あ、ボクこれも好き! 着るならこういうの! かっこいいなあ」

 ページを捲ると、次は軍服の少年に歓声が上がった。黒のロングコートにハーフマントを纏い、片手には軍刀を携えている。華やかな装飾には、所々に東の国のモチーフが盛り込まれている。
 紅茶を啜ると、イチゴとシャンパンの爽やかで芳醇な香りが鼻と喉の間で弾ける。安っぽい画帳を見つめるアレキサンドラのきらきらした表情に、胸の奥がむず痒くなる。

「これは、軍人を見かけて、軍服っていいよなーって……」
「……っていうかさ、アルマって軍人に見つかって大丈夫なの? 昼間もその格好だと絶対怪しいよ」
「そんな訳ないわけないだろ馬鹿。俺だって昼間は周りに馴染むようにしてるから」

 心配そうに見上げてくる彼女の表情に、呆れたように目を細める。隣で無邪気に微笑む少女から目を逸らし、再びティーカップに口を付けた。死んでも自覚したくない。「嬉しくて照れている」だなんて。
 微妙に表情を歪める青年の隣で、アレキサンドラはふふ、と小さく声を漏らす。落ち着かない視線と深呼吸。嬉しいんだなあ、アルマは。褒められ慣れていないのだろう、嬉しいのを隠そうとしているのが愛おしい。
 にやにやと口元を綻ばせながら、彼女は隣に座るアルマに凭れ掛かる。見上げた先の彼は最早拒むことも諦めたような、けれど満更でもなさそうな、優しい顔で。
 「好き」。ふと交わった視線に、その言葉が喉元まで上がってくる。溢れんばかりの笑顔を彼に向けると、幸せの味を噛み締めた。
 まるで、初めて感情を知った赤子みたいに、覚えたての「好き」を何度も抱き締めるのだ。


♦♦♦♦


 石造りの鍛錬場で聞こえてくるのは、金属のぶつかり合う音と硬い靴音、二つの呼吸。必死そうな上がった息に対し、もう一方はまだ余裕を残しているのか、一定で乱れることがない。
 銀色の刃は鋭い音を響かせ、また空気を切ってびゅう、と鳴る。頭上に差し込まれる剣に瞬時に身を屈めると、ふわりと浮いた青年の赤い髪を刃がチリ、と掠める。
 体勢の整わない少年に腰を落としたまま剣を突き出すと、最早体力も限界に近い少年は受けるのが精一杯だ。何とか剣を構えて攻撃を防ぐも、完全に防戦一方である。
 一際重い一撃を剣で受け止めたその瞬間、バランスを保てなくなった少年の身体がぐらりと揺れる。そのまま地面に尻もちをついた少年の喉元には、銀色の刃が突き付けられていた。
 冷酷な色をした青年の薄紅の瞳が、小柄な少年の姿を映す。しん、と張り詰めた静寂が辺りに広がる。

「そこまでっ!」

 沈黙を破る声に、糸が切れたようにアレキサンドラとグラナの表情が緩む。二人を囲む兵士達の拍手に包まれ、彼は座り込んでいる少女に手を差し伸べた。

「うーん、完敗だなあ! 十三勝四五敗……だっけ?」
「はは、十三勝四三敗ですね、陛下」

 困ったように笑いながら、アレキサンドラは小さな手を伸ばす。軽い身体がぐいと引き上げられると、二人は少し距離を置いて互いに礼をした。
 二人の手合わせは、陸軍の鍛錬場で定期的に行われていた。本職の軍人に負けず劣らない彼らの秀でた武術は、模範として兵士達の前で披露される。陛下直々に剣術を披露することは、兵士達の士気の向上にも大いに繋がるのである。

「やっぱりグラナは強いな、なかなか勝てないなあ……」
「いえ、体格の違う相手と互角に勝負できることがすごいんですよ。僕なんてまだまだです」
「はは、謙遜しなくてもいいよ。君は十分強いんだから」

 アレキサンドラも十三の少女(ということは極秘であるが)としては卓越した技術の持ち主であるが、流石に体格の違う男相手にはそう簡単に勝てるものではない。特にここ最近は負けが込んでいる。
 がっくりと肩を落とす彼女の前で、彼は少女の背丈に合わせるよう身を屈めて微笑んだ――その時、ふと談笑していたアレキサンドラの耳に気がかりな会話が飛び込んでくる。騒めきの中、ひそひそと声を抑えた話し声は、若い青年たちから聞こえてくるようだ。

「よっしゃ! グラナ様の勝ちってことで、晩飯の肉は俺のな!」
「おいっ、もうちょい声抑えろよ……軍曹あたりに聞かれたら」
「良いですよ、賭けても」
「!? っへ、陛下!」

 人集りの後方の青年たちの前に立っていたのは、にこりと笑みを浮かべた国王陛下。いつの間にそこに居たのか、声をかけられて初めて気が付いた彼らの血の気が引く。
 軍曹どころではない、きつく叱られるどころではない、何せ今の会話は全部、よりにもよって「国王陛下」に聞かれていたのだから。

「勿論、金品を賭けるのはいけませんけど、夕飯のおかずくらいなら、ねえ? グラナ」
「うん、まあ……それくらいなら構わないですよ」

 表情を強張らせる青年らに、アレキサンドラは優等生らしく微笑んでみせた。背丈の高い彼らを見上げる表情は凜としていて、透き通るような声に思わず背筋がピンと伸びる。
 一回りも大きい大人の男たちに囲まれながら、彼女は圧倒的な存在感を放っていた。陶器の様に白い肌も小さな身体も、何処から見てもか弱い子供なのに、紛れもなく「上に立つ者」なのだと理解できる。

「……あ、あと、賭けるなら是非、僕に賭けてくださいね。そうしてくれたら、僕もっと頑張るので!」

 悪戯っぽく笑うその表情は柔らかく綻んでいて、凍り付いていた兵士達の空気が緩む。まだ幼さの残る笑顔は、周りで見ていただけの軍曹ですら穏やかな気持ちにさせるほどだ。
 可愛らしさという賄賂を振り撒く彼女に、後ろから顔を出してグラナは苦笑した。隣の少女に目を遣りながら、冗談っぽく笑ってみせる。

「ずるいですよ、陛下。なら僕だって! 賭けてもらえるなら絶対に勝利を齎してみせます」
「はは! 次にやるのが楽しみだなあ。……っと、そろそろ時間かな。それでは、皆も鍛錬に励んでくださいね」

 グラナと目を合わせて、アレキサンドラは少年の様に無邪気に笑い声を上げた。敬礼の群れに背を向けると、一度振り返ってにこりと目を細める。
 軍隊のことは好きだった。彼らの多くは自分に対して好感を抱いているから。幼い頃から王子として軍部に出入りしていたことも一つだが、国王就任当初に行った軍の待遇改善が主だろう。
 長年に渡って放置されていた劣悪な環境、低廉な報酬、質の悪い兵士達。幼少からそれを目の当たりにしていた彼女は、崩壊寸前の彼らに整備された軍施設と十分な報酬を与えた。その際の政策は胃に穴が開きそうなほど悩まされたが、それだけの苦労はすべて自分に返ってくる。

「……という訳なんです。陸軍の次の予算、少し海軍に回して、海上の取り締まりに充てられないかなあ、と」
「なるほど……でしたら是非、うちの予算を回してください。昨年の余剰金を繰り越せば、うちには余裕があります。昨年は大きな災害も出軍もありませんでしたし、会計士のお陰で軍費はかなり節約できましたし」
「それは本当ですか? ありがたいなあ」
「いえ、全て陛下の御厚意に報いる為。我々は貴方の御恩を決して忘れません」

 煙草の匂いの沁みついたソファに腰掛けて、肩幅の広い男は傷だらけの顔を緩めた。初めに軍を味方につけたのは、力を持つ者を手早く手懐けたかったから。力を持って反抗されないように、そして自分に歯向かう者から守ってくれるように。
 何事も行ってすぐに結果が出るわけではない。しかし、軍部の改革は確かに目の前に結果として表れている――特に、この元帥は彼女に対して並々ならぬ崇敬の念を抱いている。
 至極当然のことだろう。始めは小生意気なガキにしか見えなかった彼女の、自分たちに寄り添い真っ直ぐに努力する姿を目の当たりにしたのだから。その上、小さくて可愛くて……。

「それにしても……失礼かもしれませんが、陛下を見ていると、孫を思い出すのですよね」
「……へえ、お孫さん、今おいくつなんです?」
「今年で十一になります。親離れのできない甘えん坊でして……いやはや、少しは陛下を見習ってほしいものだ」
「ふふ、溺愛していらっしゃるんですね」

 小さくて可愛いらしいその佇まいは、彼らの子を、孫たちを思い起こさせるのだ。

「では、本日はこの辺りで……日を改めて海軍の方とも話しましょう」

 ずっと不安で不安で仕方がなかった。目の前の人に憎まれるのが。だから確実に、ボクのことを好きになってもらわなきゃ。
 でも、今は違う。今の自分には、あの温もりがある。包み込んでくれる温かさが、受け入れ抱き締めてくれる優しさが、彼女の背中を押す。
 アルマが褒めてくれるなら、なんだって出来る気がする。何処までだって努力できる気がするんだ。
アレキサンドラは、ガタイの良い中年を見上げて無邪気にはにかんだ。


「……あ、アレキ! おつかれ、元帥との会談、今終わったの?」
「グラナ! うん、グラナは? 何してたの?」
「次の予定まで時間があるからね。ちょっとトレーニング」

 見慣れた赤髪の青年は、少女の姿を視認するなり嬉々とした笑みを花咲かせた。先の軍服から着替えた彼の佇まいからは、相変わらず清廉とした品位が漂っている。
 幸い迎えの馬車までの道には、二人以外の人影は見られない。アレキサンドラも張り詰めていた気を緩めると、ほっと一息ついて笑みを浮かべた。

「……よかった、アレキが元気そうで」
「? どうして?」
「この間の。もし落ち込んでたらって思ってたけど、そんな心配いらなかったみたい」

 含みのある声色にきょとんとして見上げると、グラナは眉を下げて笑いかけてくる。何処か申し訳なさそうな、気の弱そうな表情からは、彼の穏やかで優しい性格が滲み出ている。
 グラナは優しくて気遣いが出来る。今だってそう。きっと激しい鍛錬をしただろうに、汗の一筋すら残さず、傍にいると好ましいフローラルな香りがする。そしていつだって、彼女に穏やかな瞳を向けてくれる。

「あはは、落ち込むだけ無駄だしね。心配してくれてありがとう! ……あ、そうだ、良い茶葉があるんだ。明日どう?」
「やった! じゃあお気に入りのマカロン持って行こうかな!」

 嬉しそうに頬を染める彼に、アレキサンドラは空虚さを覚えた。精一杯自然な作り笑顔で、中身のない空っぽの言葉を吐く自分が空しくて、それでも胸が痛まないのが申し訳なくて。
 彼に好意は抱けない。薄い壁越しに伸ばしてくる手を、彼女は取ることが出来ない。例えそれが裏切りでも不義でも、心臓がジンジンする疼きに笑みが零れてしまうのが、「好き」なんだと知ったから。
 二人きりの廊下を歩く彼女の足取りは、いつになく軽かった。


♦♦♦♦


「……っアルマ! ……あれっ」

 窓際に降りた彼を見て、アレキサンドラは目を丸くした。上から下までひとしきり眺めると、得意然とした表情の彼と目が合った。

「す、すごい! 普通の人みたい!」
「お前が怪しいとか言うから、ほら」
「うん! 全然怪しくない! かっこいい! ね、レンゲもそう思うって!」

 清潔なグレーのシャツに紺色のベスト、黒いコートは存外彼に似合っている。高貴過ぎず安っぽ過ぎない雰囲気は、間違いなく昼の城下でも違和感なく馴染むだろう。
ウエストポーチから飛び出した黒猫は、構って欲しそうにズボンの裾に頭を擦り付ける。彼女がしゃがみ込んで同意を求めると、意味も分かっていなさそうな顔でにゃあ、と可愛く鳴き声を上げる。
 目を輝かせながら褒めちぎる彼女に、流石に恥ずかしくなってきたのかアルマは気まずそうに目を伏せながら、血色の悪い顔を少し赤くして俯いた。

「もうずっとこれの方が、怪しまれずに済むんじゃない?」
「いや……これは重いし動きづらい」
「へー! ボク、こういうアルマも新鮮で好きだなあ……あ、こんなところに隠しポケット」
「おい……って、うわっ」

 纏わり付いてくる彼女を軽く払うと、照れた顔を隠すようにそっぽを向く。覚悟はしていたが、思っていた十倍くらいの反応が返ってくるとどうも受け止めきれない。何も言えず沈黙して見下ろしていると、不意に飛びつくように腰に抱き付かれた。
 いつもと違う感触、いつもと違う匂い。でも、抱き締めた感覚は同じで、頭を撫でてくれる優しい手つきも同じ。飛び跳ねるみたいに胸が高鳴って、わくわくするのが止まらない。
 抱き締めたまま胸の中で彼を見上げて、きらきらした赤い瞳で真っ直ぐ見つめる。今日はどんな楽しいことをしよう。

「あのね、やってみたいことがあるんだ」
「……? なんだ」
「えへへっ、じゃーん! カードゲーム!」

 飲み終えたティーカップを置いて膝の上のレンゲを撫でていると、アレキサンドラに小箱に入ったカードを突き付けられた。カードの背面には高級感のある柄が描かれている。彼女は箱から取り出したそれを混ぜながら、テーブルの上に配り始めた。

「トランプか……したことないけど」
「こうやって配られたカードを引きあって、同じ数字が出たらここに捨てる。先に手札がなくなった方が勝ちで、このジョーカーを最後まで持ってた方が負け。簡単でしょ? あっレンゲ、それオモチャじゃないよ」

 裏向きに配られたカードを見て、アルマは眉間に皺を寄せた。嘗て侵入した家の中でそれを見たことはあるが――無論、カードゲームをする相手がいたことがない。
 正直ルールはよく分からないが、彼女が楽しそうに説明するから、ちょっとくらい付き合ってやってもいいか……

「それでね、これで勝った方の言う事を一つ、なんでも聞く!」
「……は? そんなのお前にとって圧倒的に有利だろ」

 ……と思ったのが間違いだった。少女が無邪気に言った言葉に、彼は思わず呆然として声を上げた。そう、アレキはこういう奴だった。

「そんなことないよ! だってボク、あんまりババ抜きやったことないし」
「……」
「それに、ボクが負けたらアルマの言う事聞くし……ねえねえ、やろうよー」
「……はあ、分かった分かった……」
「やったあ!」

 不満をあらわにする彼に、アレキサンドラは眉を下げて反論する。ぐいぐいとコートを引っ張って強請ってくる彼女は、まるで玩具を前に駄々をこねる子供のよう。大人になりたいんだかどうなんだか、呆れたような溜息が漏れる。
 大きな瞳を潤ませて懇願する彼女に、アルマは結局根負けした。嬉しそうにきゃっきゃと騒ぐ少女と対面する形でソファに腰を下ろすと、配られた手札を眺める。それ程彼女が望むなら仕方がない――「あんまりやったことない」なら尚更。
 そんな幸せそうな笑みを向けてくるなら、仕方がないことだ。


「―――っなんでだよ!」
「はい、あがり!」

 仕方がないことだった。手の中に一枚だけ残された頓痴気な顔のピエロを見つめて、彼は机に突っ伏した。
 三度目だ。この頓痴気な顔を見るのも、目の前でアレキサンドラが得意げにガッツポーズを決めるのも、もう三回見た。
 一度目の敗北の後、「慣れてないだろうから……」と彼女が差し出したチャンスだった。最後は必ず彼女が数字のカードを引き当てる。そして必ず頓痴気なピエロと対面し、嬉しそうな歓声が聞こえてくる。

「お、お前……なっ、い、いやなんで、なんで毎回……本当は経験者だろ!」
「ううん、あのね、顔で分かるんだよ」
「は、はあ……?」
「ふふん、ボクがジョーカー引こうとすると、一瞬目が違うところ見るんだよ、ほんのちょっとだけど」

 得意げに顔の横でVサインを作る彼女に、アルマは頭を抱えて目を瞑った。一回目の負けはともかく、二回目からはだいぶ感覚も分かってきた筈だった。それが、目線一つで完膚なきまでに叩き伏せられてしまうのが情けない。
 テーブルに顔を伏せる彼を見て、アレキサンドラは込み上げる愉しさを飲み込んだ。これは見たことのない表情だ。表情の硬い彼の鉄壁が崩れる瞬間、アルマの見せたくないものが曝け出されているような気がして。
 こんな庶民的で子供じみた、最高に楽しい遊びが、またアルマとの距離を近くするのだ。崩れた一瞬の彼の表情は、「友達」みたいな表情だったから。

「……にしても、未経験者相手に容赦ない……」
「ゲームは本気で勝負するのが礼儀だもん」

 らしくなくもごもごと文句を垂れる彼の前で、ふんぞり返る彼女はしたり顔だ。そんなアレキサンドラも、ゲーム中のポーカーフェイスは鉄壁だった。時折、意味深に微笑んだりにやけたりするのが厄介で、惑わされているうちにジョーカーを掴まされている。
 膝の上の子猫は、二人が相手をしてくれなくて退屈だったのか、小さく丸まってぐっすり眠っている。机から顔を上げると、漸く目を覚ましたレンゲが眠たげに毛繕いをしていた。視線の先の彼女は、満足そうに笑みを浮かべている。

「もう一回やる?」
「いや、もういい……それより、早く要求を言え」
「えっとね、じゃあボクまた街に行きたいな~」
「……またか……」

 わざとらしく甘えるような声色に、アルマは気怠げに小さく呟いた。まあ、覚悟はしていたが……重い腰を上げると、レンゲは察したようにウエストポーチに飛び込む。
 アレキサンドラは嬉しそうにクローゼットを開けると、ロイヤルブルーのロングコートを引っ張り出す。それを品良く纏うと、真白のマフラーを巻いて準備万端だ。

「はい! アルマ、これ」

 不意に、彼女に腕を引っ張られる。振り返ると、少女は何か布のようなものを差し出してきた。ぐいぐいとそれを押し付けられるので、渋々それを手に取ってみる。柔らかくて肌触りの良いそれを訝しげに見つめる彼に、アレキサンドラは子供らしく白い歯を見せる。

「……なんだこれ」
「マフラー。いつも首元寒そうだから、それあげる」
「え、いや……俺は別に、そんな」
「いいから! ほら、巻いてあげる!」

 相当上質なベビーブルーのマフラーに狼狽える彼に、アレキサンドラは問答無用でそれを巻き付ける。手際よく巻かれたそれは少し明るい色だが、今日のアルマに良く似合っていた。それに、柔らかくて暖かくて、包み込まれるような優しさを感じる。

「うん、似合ってる」
「……それよりほら、出るぞ」
「はーい」

 照れ隠しの様に話を切り上げマフラーに口を埋めると、アルマは飛び込んできた彼女を抱きかかえた。少女の手がマフラー越しに首に巻き付く。
 彼に抱きつくと、首元のふわふわが温かくて気持ちいい。そうやって悠長ににやにやしていると、不意に目下に遥か遠い地面が現れて背筋が寒くなった。静かな森には、風の音がびゅう、と響いている。無意識のうちに彼にしがみついていたらしい、彼の腕に強く身体を抱き寄せられる。

「……その」

 ふと、頭上から聞こえてきた声。
 離れられないのでちゃんと顔は見えない。ちらりと一瞬見えた瞳は、優しく微笑んでいるみたいだった。

「……ありがとう、これ。あったかくて……いい」

 あまりに穏やかで優しい声色。胸の奥に温かな雫が落ちて、じんわりと温もりが広がっていく。覚えがある。これは「好き」だ。
 アレキサンドラは、一瞬その温かさに呆気に取られる。思わず零れてしまいそうな言葉を飲み込んで、紡ぎだした声は少し裏返った。
 
「……っう、うん! でしょ!」
「……じゃ、降りるから」
「え、あっ、ひ……っ!」

 慕情の込められた眼差しのむず痒さに耐えかねて、アルマは焦るように窓枠から飛び降りた。突然の浮遊感に、少女の喉は声にならない悲鳴を絞り出す。小さくか細い叫び声は、風の鳴る音と木々の騒めきに溶けて消えていく。

「……ひぃ」
「大丈夫か? アレキってこういうの苦手なんだな」
「三階の窓から飛び降りるのが得意な方がおかしいんだよ……」

 強張らせた身体を抱きかかえて、彼はゆっくりと地面に着地した。彼女を背中に負ぶうと、風に乗って森に飛び込んでゆく。彼の背中にしがみつきながら、アレキサンドラはぐったりとして息を吐いた。
 吹き付けてくる風は凍てつくくらいに冷たい。木々の間を通り抜けていると、たまに葉が顔に当たって少し痛い。でも、それ以上にアルマと外に出られることに、彼女は喜びを感じていた。

「で、今日は何処に行きたいんだ」
「えっとねー、うーん……酒場! ちょびっと何か食べたり……」
「却下」
「ええ~、アルマのケチ」

 風を切る音。ラピスラズリのような深い藍色の空に、まん丸で青白い月がぽっかりと穴を空けている。アレキサンドラがぐっと顔を近づけて答えると、彼は即座に一蹴した。頬を膨らませて何か言っているようだが、風の音でよく聞こえない。
 それにしても、やはり身体が重いな。彼女が乗っているから致し方ないのだが――まあ、諦めるしかないのだが。彼は地面を蹴り、生み出した風に身体を乗せる。

「大体、お前は目立つんだ。自覚しろ」
「む……じゃあ、夜の街を散歩するのでいいよっ」
「……まあ、散歩くらいな――、待て」

 ぴくり。一瞬にして張り詰めた声。背中越しに感じる彼の身体が硬直する。息が詰まるような雰囲気を察して、アレキサンドラは表情を強張らせた。

「な、なに」
「しっ……」
「……?」
「――――狼だ」

 いつもより幾分低い声だった。冗談にしてはあまりにも深刻そうで、その顔は見ずとも表情が窺える。不安に揺れる瞳を瞬かせて耳を澄ますと、背後から微かに「自分たち以外の何か」の音が聞こえてきた。

「っこ、この森に狼なんて生息してない、筈なんだけど」
「……このまま振り切って森を抜けるしかない」

 先よりも強く地面を蹴る。より鋭い風の中を纏ったアルマの表情に、余裕はなかった。身体が重い。彼女を背負っているからではない。よりによって今日の格好が、身体の動きを阻害するからだ。分厚いコートが重い。パリッとした清潔なシャツが窮屈で思うように動けない。
 森を抜けるまでには、来た道よりも長い距離がある。真冬だというのに、彼の額には汗が滲んでいた。目を閉じて考える。森から出るのが先か、追いつかれるのが先か――

「も、もし追いつかれたら……最悪、ボクのヨッドで」
「余計な事考えるな! 絶対に俺から身体を」

 ふと、彼の耳に違和感のある音が届く。それは、あの日アレキサンドラの館を見つけた時のような、この森に似つかわしくない音。
 木々の途切れた場所、吹き付ける風がぶつかる音。

「た、……建物だ」
「えっ……な、何それ! ボク、知らない……」
「何でもいい! 隠れるぞ」

 戸惑っている暇もなかった。アルマの焦ったような声と同時に、木々の間から飛び出していた。目の前に現れたのは、蔦に覆われた古びた石造りの建物。それが何かを確認する前に、彼は重そうな扉に体当たりをして飛び込んだ。

「っ、うっ!」

 勢いよく投げ出されて、二人は冷たい床に転がり込んだ。幸い、飛び込む際に彼が抱きかかえてくれたお陰で、アレキサンドラは痛みを感じなかった。半面、彼は腕の中の彼女を支えながら痛々しい唸り声を漏らしている。

「あ、アルマ! 大丈夫!?」
「……う、ぐ……だ、いじょうぶだ……それより」
「うん、レンゲも無事だよ……」

 投げ出されながら、彼は器用にウエストポーチからレンゲを取り出し彼女に抱かせていたのだ。子猫は床に横たわる二人の間で、びっくりしたように尻尾の毛を逆立てている。
 アルマはほっと安堵に息を吐くと、苦しそうに身体を起こした。目を閉じて耳を澄ませる。どうやら数匹の狼はここを見つけられていないようだ。標的を失ったようにうろついた後、音が遠のいていくのが聞こえてくる。

「……よかった……一先ずは、無事か……というか、ここは……」
「何だろ……なんか埃っぽ……っひぃ!」

 安心したのも束の間、ドン! という重たい音と同時に急に視界が暗転する。金属質のドアがひとりでに閉まったのだ。隙間から零れていた月の光はすっかり途絶えて、何も見えない暗闇に彼女は甲高い悲鳴を上げた。
 すぐに彼女を引き寄せると、アレキサンドラは身体を縮こまらせて震えている。アルマの存在を確認すると、ふと何かに気が付いたように慌て始めた。

「……もう少しここで待った方が良いが……暗くて危ないな、外に出よう」
「ま、待って! あの……レンゲがいないの、さっきまでここにいたのに……」
「……今のでびっくりしたのか……仕方ない、ほら、立てるか」

 困ったような呆れたような顔で、彼は嘆息を漏らす。困ったものだ――彼はその優しさ故、ただの人懐こい野良猫であっても、決して見逃すことが出来ないのだから。彼女の身体を支えて立ち上がると、先に強打した肋骨が少し痛む。

「あ、アルマ……この暗い中を歩いて探すの?」
「ああ、別に暗くても何があるかは分かるし……怖いなら、ここで待つか」
「やだ! 絶対ついてく!」

 彼の柔らかい声から、心配されていることが伝わってくる。でも、暗闇の中に置いて行かれる方がずっと怖い! 焦ったように彼の手を掴むと、アレキサンドラはその腕にぎゅっと抱き付いた。

「アルマ、何処にも行かないでね、一人にしないでね」
「そんなことする訳ないだろ……おい、足元気を付けろ」
「ひ、うわわ」

 暗闇の中、無機質な二つの足音が響く。耳を澄ましてみると、人間ではない小さな何かが蠢き走り回るのが聞こえてきて気味が悪い。小さな物音に縮み上がっていると、何か椅子のようなものに足をぶつけてしまった。
何も見えなくて、隣を歩くアルマも、自分さえも分からなくなる。両の腕でしっかりと捕まえている彼の腕だけが、そこにアルマがいるのだと確かめさせてくれる。

「アルマ、見えるの?」
「……見えるわけじゃないけど、まあ、音とか空気感で何があるかくらいは分かる。アレキと出会った時も、俺は何も見えてなかったからな」
「えええ! 何それ、初耳なんだけど!」

 廃墟同然の建物には、そこら中に埃を被った瓦礫が散らかっていた。玄関から繋がる廊下には、左右に幾つかのドアがある。その先には、大した広さでもない部屋があるのだろう。中を確認するまでもなく、そこにレンゲの音も気配はない。
 視力を取り戻してから精度がかなり落ちたとはいえ、暗闇の中で彼の触覚と聴覚は鋭く周辺を察知していた。ふと、目の前のドアの向こうが「普通ではない」ことに気が付く。そしてその先にまだ何かがあることを、彼は聞こえてくる音から感じ取った。

「う、けほ……っ、うええ、ここも埃っぽい……」
「……大丈夫か」
「我慢する……」

 キイ、と錆びた蝶番が喚くような不快な音を立てる。おずおずと怯えた歩みに合わせて、足元で金属音とガラス片の砕ける音が鳴る。その度に、アレキサンドラは気疎そうな息を漏らして強く彼の腕を締め付ける。
 他よりも二回りほど大きい部屋には、大きなテーブルが置かれていて、脚や背凭れの折れた椅子が沢山ひっくり返っていた。確かに、ここから子猫の怯えた息遣いが聞こえてくるのだが……逃げるような、導くような小さな足音を頼りに進んだ先で、彼は目の前に立ちはだかる何かにぶち当たった。

「……また、ドアだな」
「思ったんだけど、レンゲってドア開けられるの……?」
「……元々開いてたんだろ」

 少し間をおいて答えると、彼女は無言でぐっと身体を寄せてきた。ドアノブに手を掛けて押すと、先のドアより手応えがあるのを感じる。地面を擦るような重たく鈍い音を立てて、扉が開いていく。

「!」
「……光?」

 扉の先には、扉があった。アレキサンドラはアルマと顔を見合わせて目を見開いた。
両開きのドアの隙間から、青白い光が細い筋を作っている。腕に縋りついていた彼女を見下ろすと、その表情は恐怖から好奇心へと塗り替えられていた。
 どうしてか、その先に何があるのかをアルマは感じ取ることが出来なかった。薄暗さの中、彼は神妙な面持ちで重いドアを押し開く――


「……わああ!」


 目の前に広がる極彩色。満月の光を受けた鮮やかな色は、無機質な白い床に映し出されてまるで宝石を零したみたい。瓦礫と埃に塗れ、崩れて蜘蛛の巣が張っているはずなのに、「神聖な場所」だと分かる――寧ろ、朽ちたその姿こそあるべき形であるかのように。
 筆舌に尽くし難い神々の姿に、アレキサンドラは感嘆の声を漏らした。神々しく照らし出されたそれは、長い時間の流れを感じさせながら汚れの一つも見当たらない。思わず息を呑んだ彼の瞳は、その色を反射してダイヤモンドの様に煌めく。

「ここは……」
「礼拝堂だよ、ここ! あっ、レンゲ!」

 飛び出してきた黒猫が、彼女の足の間をするりと抜けて擦り寄ってくる。アレキサンドラがしゃがみ込んで撫でてやると、レンゲは甘えたような声で嬉しそうに鳴いた。

「……これはランプか……蝋燭は……まだ使えそうだな」
「ねえ、アルマ! ここもっと色々見てもいい?」
「急に元気になったな……あんまり走るなよ、気を付けろよ」
「えへへっ、レンゲも行こー」

 落ちていた古いランプにマッチで火を灯していると、彼女の楽しそうなはしゃぐ声が聞こえてくる。暗闇の中で怯えていた少女の姿は何処にも見当たらない。アルマは呆れたような、安堵したような表情でそれを見つめた。
 古寂びた絶対に音の鳴らないようなオルガン。精巧な彫刻が施されていただろうに、今は欠けてしまった柱。何かを覆っていたのだろう、白く透けたカーテンのような布。まるで異世界に来たみたいだ。興味を惹かれるものの数々に、思わずアレキサンドラの足取りは早くなっていく。

「すごい、すごあーーっ!」
「! なんだ!?」
「いたあ……」

 急な悲鳴に、血相を変えて駆け付けた彼の目に入ったのは、布に絡まって尻もちをついている少女の姿だった。呆れて物も言えないな、こいつは……。溜息を吐きながら、絡まったカーテンを捲り上げる。

「走るなって言っただろ……」
「へへ、ごめん……ありがとう、アルマ」

 白く透けた布の下から、アレキサンドラの困ったような笑顔が覗く。差し込む月の光に照らされた彼女の顔は、その端正さが一層際立って見える。中身は言う事を聞かないただの子供のでしかないのに。布から抜け出した彼女は、子供っぽく笑いながら机の上に腰かけた。

「よーし、休憩~」
「……王様が神様の前で、行儀悪くないのか?」
「座席は窮屈だもん、どうせ誰も見てないし! アルマも座ったら? ほら」
「まあ……それもそうだな」

 冗談っぽく微笑む彼を隣に座らせると、アレキサンドラは満足げに笑みを浮かべる。レンゲもそれを真似るように、必死に登ろうとするので、アルマはその身体を持ち上げて自分の膝に乗せた。

「すごいステンドグラス……なんか、前に参列した結婚式を思い出すなあ」
「……そういえば、アレキに聞きたいことがあった。……聞いていいのか迷ったけど」
「え、なになに?」
「……アレキ、って……その、お前の中で自分のことを、男だと思ってるのか、女だと思ってるのか……と」

 婚約者の話をする彼女を見て、自分の絵を見つめる彼女を見て、目を見て「好き」と言ってくる彼女を見て、ずっと思っていたこと。彼女の「結婚式」という言葉に、ふとアルマは躊躇いながら以前からの疑問を呟いた。
 アレキサンドラの隣で、何処か引っ掛かっていた気がする。自分の言葉が彼女を傷付けないか。それだけじゃない、不安にも似た感情が胸の奥で燻っていて。
 この感情が何なのか――正しいものなのか、確かめないといけない気がした。

「……あはは! なんだ、そんなことかあ」
「……」
「ボクも思い出した、昔ね、同じことを母上にも聞かれたことがあるんだよ」

 不安げに俯く彼を見て、アレキサンドラは少年らしい笑い声をあげた。思った以上に、彼女はその質問を気にしていないようだった。少女はステンドグラスを見上げながら、在りし日の記憶を追想して微笑む。

「うーん、ボクね、分からないんだ。男だとか女だとか、だってボクはその前に王様だから」

 彼女の口から出る言葉は思っていた以上に重くて、アルマは言葉を返すことが出来なかった。当の本人は存外深く考えていないようで、いつもみたいにころころと子供っぽく表情を変えている。

「それに、別にボクが自分を男と思おうと、女と思おうと、何も変わらないしね」
「……うん」
「あ、逆に、アルマはどう思う? ボク、男の方がいい? 女の方がいいかな」

 彼女が向ける無邪気な笑顔に、彼の中で一つの気がかりが晴れた音がした。胸の奥の燻りも引っ掛かりも、変わらず引っ付いて離れない。けれど、その問いへの答えは一つに決まっていた。

「……どっちでも。どっちにしろ、アレキはアレキだから」

 そう答えながら、彼は膝の上で寛ぐ黒猫を撫でる。そう、アレキはこういう奴だった。真っ直ぐで強かで、目の前のことに度が過ぎるくらい一生懸命。目の前の彼女はずっと変わらない。
 本当は、軽い冗談のつもりだった。だったのに、そんなに優しくて柔らかい顔をされたら。そんなに優しく微笑まれたら。透き通った瞳に映る可愛い子猫は、満足げに欠伸をしている。きっと、「好き」が止め処なく溢れてしまう。

「……えっと、何……何か気に障ったか」
「……アルマ、笑ってほしい」
「は」

 じっと見つめてくる彼女に、訝しげに眉を顰めると、飛び出してきたのは突拍子もない言葉。狼狽するアルマの前で、アレキサンドラは何とも言えない顔をしていた。
 この「好き」は、どんな顔をしたらいいのか分からない。笑うのは違うと思う……顔が変になりそうなのを我慢していると、顔が硬直して逆に変な顔になってしまう……。

「……笑えって言われると、笑いたくなくなる」
「え……笑ってよアルマ、アルマの笑顔が見たいんだよ!」
「……」
「ずるいずるい! レンゲには笑ったの見せてたのに!」

 つい意地悪したくなって口を結ぶと、彼女はいつもの調子に戻って小動物の様に頬を膨らませた。足をばたつかせて駄々っ子の様に喚いて、猫にすら張り合う姿は呆れるくらいに子供っぽい。
 本当にこいつは、アレキサンドラは子供らしくて真っ直ぐなんだよな。

「アルマの意地悪! 馬鹿! 冷血漢! 性悪! 没義道! 冷酷!」
「うるさい」
「んむー!」

 隣でビービーと騒ぐ彼女の膨らんだ頬を両手で挟む。反抗的な瞳で睨んでくるアレキサンドラを見下ろしながら、アルマは微笑んでいた。
 どんな顔も「アレキらしい」。知らないものに目を輝かせるのも、新しいものを知るのが楽しくて走り回るのも、意地悪をされて必死に反発するのも。
 ああ、本当に可愛いなあ。

 は?

「……はあ……」
「え、何?」
「……何でもない……」

 アルマは頭を抱えて大きく息を吐いた。急に彼が俯くものだから、アレキサンドラは心配そうに覗き込んできたが、彼はそのまま手で顔を覆った。
 一瞬――今、一瞬、何を考えた? 頭に過った「間違った感情」を、彼は脳内で何度も否定する。これは、間違っているのだから。今のは一時の、一瞬の気の迷い……雰囲気に流されただけ。
 指の隙間から見える彼女は不安げな瞳でこちらを見つめている。大丈夫、「間違った感情」はもう無い。手を退けたアルマの表情は、いつも通り微妙に険しい無表情。
 胸の奥が痛む。

「……それより、ほら、さっさと外に出るぞ」

 咳払いをして、やっと絞り出した声は上擦った。アレキサンドラは安堵したような、名残惜しそうな顔でアルマに微笑みかける。

「ねえ、もうちょっと……もうちょっとだけ、ここでアルマと喋りたいなあ」

 甘えた声じゃなく、素直な願望がストレートに込められた声。いつものように適当にあしらおうとは思わなかった。事情を知ってか否か、黒猫は再び膝の上でうたた寝を始める。

「……仕方ないな、ほんとにちょっとだからな」
「やったー!」

 礼拝堂に響き渡る歓喜の声。少年の様に快活で、少女の様に可憐な声に、アルマは顔を少し傾けて微笑んだ。
 彼女の言葉に少し「嬉しい」と胸が高鳴るのは、間違った感情ではない。はにかんで見上げてくるアレキサンドラの頭を、彼はいつものように優しく撫でた。
 胸が少し、痛む気がするけれど。

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[2019/12/24 00:45] | ダイヤモンド・ライト | トラックバック(0) | コメント(0)
-母子問答-


「アレキサンドラ、最近はどう? お仕事、頑張ってる?」


うーん、まあまあかな。結構やれてると思う。


「そう。良かったわ。貴方が心配でね……辛いものを背負わせてしまったから」


ううん、そんなことないよ! ボクは全然へーき! お仕事は大変だけど、やり甲斐あるし。


「アレキサンドラ、無理してない? 大丈夫? 貴方は私に似て身体が強くないから……」


だいじょーぶ! もう、心配性だなあ……ほら見て、ピンッピンだよ?


「そうなのね……? ふふ、元気そうなら何より」


それより、ねえ! ボク、友達ができたんだよ!


「あら! そうなの! アレキサンドラからそんな報告が聞けるなんて!」


えへへ。


「ね、どんな人なの? 男の子? 女の子?」


えっとね……優しい人だよ。男の人。ボクよりずっと年上の。


「年上の男……アレキサンドラ、その人大丈夫なの? 男は皆狼よ……?」


そう! 狼なの。アルマースの狼。夜だけ会いに来る、優しい狼だよ。


「ふふ、もっと教えて?」


あのね、アルマはすっごく優しいんだよ! 怖い顔して顰めっ面で、すぐ呆れた顔するんだけど、紅茶を飲んだ時の顔! すごく柔らかくて、一瞬ふわって笑うの。


「うんうん」


それでね、すごーく絵が上手くてね! あ、他にも外に連れてってくれたりしたよ! あとね、辛い時は抱き締めてくれた……ぎゅーって。あったかくて、懐かしくて……幸せだなあって思った。


「……うふふ、アレキサンドラ、すごく幸せそう。アレキサンドラはその人のこと、好きなの?」


うん! 好きだよ、すごく好き! アルマのね、笑った顔が好きなの。


「……その気持ちを大切にね、アレキサンドラ」


うん! あっ、でもボク、大好きだよ! お母さまのことも!


「ええ、お母さまも……アレキサンドラのこと、大好きよ。ずっと、ずーっとね」


えへへ! お母さま、大好き!


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[2018/11/19 00:52] | ダイヤモンド・ライト | トラックバック(0) | コメント(0)
-6- アスチルベはローズクォーツのように

 騒めく大人たちを一番上から眺めて、憂鬱そうに目を細める。少女にとって、これは気が重くなる仕事なのだ。広い議場に議長の「静粛に」の声が反響する。
 温度の無い瞳が辺り一面をぐるりと見渡し、表情の無い顔に長い睫毛が影を落とす。「少年」は背筋をしゃんと伸ばした。

「領海内での海賊行為の横行にあたり予算を増額する防衛費ですが、財源確保の為に第二市民の人頭税を増額すべきと考えます」

 頭のてっぺんが寒くなった小太りの議員が話を始める。配られた資料に目を通してうんざりしてしまう。また、これから嫌なことをしなければならない。
 こちらの表情を伺うように訝しげな目を向けてくる小太りの議員に、アレキサンドラは表情を引き締める。堂々としていなければ。机の下で手の甲を抓った。

「陛下、何かご意見は」
「……人頭税は一昨年に引き下げましたが」
「それを、再度元に戻すべきだというわけです」

 凛とした芯のある声が議場に響く。その瞳は真っ直ぐと相手を見据える。視線の先の男が嫌悪を隠そうともせずに向けて来るので、彼女はまた手の甲を抓った。
 ああ、嫌だ。不快感に表情を歪めたくなるし視線を逸らしたくなるが、どうにか堪えて重い口を開く。

「それではますます、我々第一市民と国民の大多数である第二市民の待遇が開きます。下げたばかりの税がまた上がっては、国への不信感も拭えないでしょう」
「大体、一昨年に人頭税を引き下げたのが間違いだったのですよ、陛下」
「ならばその時に根拠のある反論を述べてください、クルマン伯爵」

 表情は変えない。一昨年、彼女が国王に就任した年のこの国は酷いものだった。平民ら第二市民の国民に課された税は、貴族ら第一市民のそれの何倍にも上るものだった。
 その時こそ、あの異常な状態に疑問を持った貴族らが大半だったが、今回はそう上手くもいかない。数多の目に睨み付けられているような気がして、冬だというのに汗が滲んでくる。

「余裕のある者がない者たちが背負うものを負担する。財源の確保には第一市民……貴族の税率を上げる。調査の結果、国民の多くは『生活が楽になった』と答えているのです」
「おお、陛下の言う『国民』には我々が含まれていないようですなあ」

 戯けるように伯爵が言うと、議場にクスクスと囁く声が広がる。頭に血が上ってゆくのが彼女自身で分かった。苛立つ自分を抑えようと、手首に爪を立てる。
 いつも、いつもこうだ。始めは同情心から協力的だった大人達は、彼女がれっきとした「国王」である事に気づき、自分たちに不利な動きを見せ始めた途端にあっさりと態度を変えた。
「子供」では無いと分かったら、彼らは子供扱いをするのだ。

「陛下は何のために政治をしておられるのですか?」
「何のためって……国民が平等に、幸せになれるように……」
「ああ、なんとお優しい! 温かな人々に囲まれ大切に育てられた陛下らしい、素晴らしい意見だ! しかし陛下、陛下はまだ子供だからお分かりではないのです」

 至って真剣に答えたそれに返ってきた声は、皮肉っぽく響いて嘲笑を含んでいた。顔が熱くなってくる。震える指先で手首の薄い皮膚を抓った。
 彼女が視線を下げその表情をやや曇らせたのが分かると、声の主はにやりと口角を上げる。同調し笑う者、やり過ぎだと冷ややかな目を向ける者、無関心に傍観する者。全ての視線が二人に集まる。

「我々貴族と他の国民は同じではないのです。我々は『国を背負う』というとても大変な仕事をしているのですよ。だから当然、第一市民の負担が軽いのです」
「そろそろにしてやれ、クルマン。子供には難しい話だ」
「不敬だぞ、貴殿ら! 誰に向かって口を利いている、慎め!」

 議場の一角からヤジが飛ぶと、小さな笑い声が巻き起こる。まだ崩れてはいけない、堪えなければいけない。噛み締めた唇が切れて血が滲む。手の甲に強く食い込んだ爪の痛みは感じない。
返す言葉を探し黙りこくっていると、他の議員の制止に救われた。数度の「静粛に」の後、まるで何事も無かったように議会は滞りなく進む。
 アレキサンドラは表情も変えず、再びそこに王として君臨する。机の下、抓った手の甲は赤く染まり、僅かに血が滲んでいた。



 数時間に及ぶ仕事を終え、議場を後にする。声を掛けてくる貴族との軽い談笑を卒なくこなすのも仕事の一つである。優美に微笑みその場を立ち去って、待たせている秘書の元へと向かわなければ。

「にしても本当、あのお坊ちゃまにはうんざりだよなあ」

 早足で進めていた足が、人気の無い議場横のテラスの前で止まる。嫌になるほどに聞いた腹立たしい声だった。それに便乗し笑う声も複数聞こえてくる。

「俺は始めからお子ちゃまに政治は無理だと思ってたぜ?」
「嘘つけ、始めは散々先王を貶しながら陛下を持ち上げてたクセに」
「だからお前ら口を慎めと……まあ、気持ちは分からんことは無いが。陛下の政治は理想を追い求めすぎているからな」

 胸がどきりとした。下卑た笑いの中はっきりと聞こえた、それはあの時救いの手を差し伸べてくれた声だった。心臓が締め付けられるような感覚。話の続きに聞き耳を立てる気にもなれず、小走りで走り出した。
 他人を信用してはいけない。先王である父がいつも言っていたのに。心が弱くなっていると、小さな光にも手を伸ばしてしまう。口の中は血の味がした。
 誰も頼ってはいけない。自分はいつだって、完璧な「王様」でなければならないのだから。

「お疲れ様です、陛下」
「えっ、ああ、セレス……ありがとう」

 不意に声をかけられて吃ってしまう。嘗ての教育係で今は秘書を務める女性、セレス=コマロフは緩くウェーブした髪をふわりと揺らして微笑んでいた。
 安堵と焦りでアレキサンドラは何とか笑顔を作るが、人差し指でぷに、と頬を刺されてしまう。セレスは困ったように笑いながら見つめてきた。

「ちょっと浮かない顔になってますわ、アレキサンドラ陛下。お疲れですね」
「あー……うん、はい! これで元気に見える?」
「ばっちり! 帰ったらお茶にしましょう。コックたちがクッキーを焼いているそうですよ」

 しっかりと笑顔を作り直すと、彼女は顔の横で丸を作る。少しは気が楽になったような気がして、アレキサンドラはほっと息を吐いた。
早 く大人になりたい――否、ならなければならない。馬車に揺られながら彼女はぼんやりと考える。自分の全てが子供っぽくて嫌になるのだ。手袋の下で赤くなった手の甲が、今になってじわじわと痛んだ。


「お帰りなさいませ、アレキサンドラ陛下」
「ただいま! ありがとう」

 手厚い出迎えに、マフラーを外して柔らかく微笑む。天使の如くその笑みに、メイド達の心すら癒してしまう程だ。
冷えた身体に室内の暖かな熱がじんわりと滲みる。侍女達にコートを託して居間へ向かっていると、バニラの甘い香りが漂ってきた。

「あっ、アレキ、お帰り! 丁度良かった、ブリューテでケーキ買ってきたんだ。お茶しない?」

 後から足音が跳んできたかと思えば、すっと肩に手を回される。グラナは薄紅の瞳を輝かせて笑みを浮かべた。その手には、城下で人気を集める菓子店の箱が握られている。
 彼の嬉しそうな姿に、アレキサンドラは申し訳なさそうに眉を下げた。指通りの良さそうな赤髪がさらさらと揺れている。

「グラナ? うーん、どうしよう……ボク、今から……」
「いいえ、陛下。グラナ様を優先してください。クッキーは夕食後のデザートにしましょう」
「そう? じゃあ頂こうかな」

 困惑していると、セレスがにやりと意味ありげに口角を上げる。その厚意に困ったように笑いながら彼女が頷くと、視線の先で嬉しそうな表情が綻んだ。
 じゃあ行こうか。エスコートするように手を取られると、背後で見守る視線が痛い。こういうのは慣れないが、見上げた先の彼が乙女のように朗らかな顔をしているので、強張った表情も少し溶けていった。
 グラナの部屋に着いた途端に、フローラルな空気が胸一杯に広がる。先に帰宅していた彼はすっかりお茶を楽しみにしていたらしい。先程の表情にも納得がいく。
 ローテーブルを挟んで向かい合うように座ると、彼は手慣れた様子で紅茶を注ぐ。白い陶器に満たされたそれは湯気立っていて、カモミールが穏やかに香り立つ。
 皿のタルトは宝石箱みたいにキラキラとベリーが乗せられており、散らされたシュガーは初雪のようだ。

「すごい可愛いね、これ!」
「でしょ! これ、人気でさ。僕もこういうの作れるようになりたいなあ……あれ、食べないの?」
「いや……えへへ、食べるのが勿体ないなあって思っちゃった」

 タルトを口にして彼が幸せそうに微笑むのを眺めてフォークを口に運ぶ。カスタードの甘みの次に甘酸っぱさが口中に広がって、思わずにやけてしまいそうだ。
 可愛らしい小さなポットでミルクを注ぐ。角砂糖を三つ入れてかき混ぜると、彼は紅茶を啜った。目を閉じて香りを堪能する姿はさながら物語のお姫様である。そんなことを考えながら、アレキサンドラは角砂糖を二つ入れた。

「……今日は大変だったみたいだね、父上から聞いたよ」
「まあね!」
「ああいうのは言いたいだけだからね。気にしないで良いよ」

 どきっとして彼女の身体が固まる。平静を装ってミルクティーを啜ったが、グラナが真っ直ぐ見つめてくるのでどうもぎこちなくなってしまう。味のしないミルクティーを飲み下し、笑って誤魔化す。

「ところで、今日も宰相の補佐かい? 十八で補佐ってすごいよね」
「まあ、補佐って言っても沢山いるけどね」
「さすが十五歳で王立大学を首席卒業しただけあるよねぇ」
「十歳で首席卒業したアレキがそれ言う〜?」

 軽い冗談を言って笑い合いながら、タルトを口に運ぶ。彼の端正な容姿でこんな風に微笑まれたら、女の子達は堪らないんだろうな。他愛ない会話をしながら、ぼんやりと別のことを考えていた。
 彫刻のような滑らかで白い肌は、どこか悩ましげな少女をより艶っぽく魅せる。あとちょっとで本当に彫刻みたいなんだけどなあ。笑いながら彼女の頰に指を伸ばす。

「ここ、クリームついてるよ」
「えっ」
「ほら……ってちょっと、そんなにびっくりしないでよ!」

 口の端に触れられて、思わず彼女はびくりと肩を震わせながら後退った。寧ろびっくりしたのはあちらも同じようで、困ったように苦笑する彼にアレキサンドラは目を逸らした。
 どうも慣れないのだ。彼が婚約者になって同じ屋根の下で暮らし始めてもう三年は経つのに、家族以外に近づかれるとどうしてか身体が固まってしまう。申し訳なさそうに笑って見せたが、一転今度はグラナが真剣な眼差しを向けてきた。

「……その、僕ら婚約してるしさ、そろそろ……もうちょっと距離を詰めてもいいと思うんだ」
「あ……ごめん、でもボク、まだそういうの分かんなくて」
「……アレキにさ、もっと僕のことを好きになってほしい」

 小さな手を包むように優しく握る。彼の澄んだ瞳は彼女の姿だけを映す。そんなに見つめられたら困ってしまう。どうしてもその「好き」が分からないのに。健気に声を掛けてくれる彼が可哀想に思えてしまうのだ。
 困惑する彼女を察したのか、グラナは優しく目を細める。手を離すと飲みかけのティーカップを口に運んだ。

「ま、焦らすつもりは無いよ。アレキのペースで進んで行ってくれたら良いからね」
「……グラナは大人だなあ、ボクも頑張らなきゃ」
「そう? アレキも十分大人だと思うけどね」

 ミルクティーを啜りながら、目の前の青年を見つめる。宰相の息子として議員見習いとして、将来の宰相として周囲の期待を背負う青年を見つめる。その期待が羨ましくもあった。
 タルトの最後の一口は、少ししょっぱいような気がした。大人になれない自分が惨めで、酷く醜いもののような気がして。


♦♦♦♦

 自室で少女は物思いに耽る。過去の議事録を広げその子細を目で追いながら只管ぶつぶつと呟く。もっと思考の幅を広くしなければ。
 全てを分かりたい――国のことも国民のことも、貴族のことも、全部。そうしたら……そうしなければ、「大人」になれない。「良い国王」になれない。
 ブロンドの細い髪がはらはらと落ちて肌に影を作る。紅い瞳が薄暗くくすんで、何かに怯えるように揺れる。今日のことを思い出した。あの瞬間のことが蘇ってきた。あの瞬間の声が、視線が、痛みが。

「……キ、……アレキ、おい」
「っや……ってなんだ、アルマかあ」
「あっぶな……」

 不意な誰かの声に振り返って思わず鋭いペン先を向けたそこには、アルマの姿があった。喉元に鋭利な先端を向けられた暗殺者は、狼狽えたように顔を青くする。
 二人が互いに安堵の表情を浮かべると、アレキサンドラは時計に目をやった。九を指す針に、自分が時間を忘れていたことに気づく。

「珍しいな、お前が俺に気づかないとか。疲れてるのか」
「あは、そうかもね! このままじゃキミに殺されてたかも」
「……なんか今日のアレキ」
「あっ、お茶忘れてた! 待ってね、今淹れるから」

 そちらこそ珍しいな、と思ってしまうような心配そうな表情をするものだから、思わず彼女は皮肉めいた冗談を零してしまった。不思議そうに眉を顰める彼の言葉を遮るように、無邪気な笑顔を作る。
 小さく詠唱文を唱えると、ティーポットに水が満たされ煮え立つ。水と炎のヨッド、加えて雷のヨッドを併せ持つ彼女は流れるような動きで茶の準備をするが、その横顔は何処か陰鬱さを感じさせる。
 明らかに普段とは違う少女の姿に戸惑いつつも、部屋を満たしていく華やかな香りに一先ずは期待を寄せることにした。満を持してティーカップに注がれたそれは、薔薇が咲き誇ったような芳香さを放つ。

「はい、今日はローズティー、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
「クッキーもあるけど食べる?」

 無言で頷いた彼の前にクッキーの入った器を置くと、彼は興味深そうにそれを眺める。おもちゃの宝箱みたいに可愛くて、様々に形の違うそれらは香ばしくバターを香らせる。
 渦巻き模様のクッキーを眺めて口に運ぶと、恐らくその美味しさに驚いたのだろうアルマの表情が変わるのが面白い。彼女はジャムの乗ったクッキーを摘みながらローズティーを啜った。
 見下ろした先の少女が普段より静かで、時折溜息を吐くのが気になってしまう。その儚げな横顔は耽美にも見える。薔薇の香りを味わいながら、彼はアレキサンドラにどう話しかけようかと戸惑っていた。

「……それで、その北方のウサギの見た目がすごくて……流石に本は買えなかったから、帰ってから描いてみたんだけど」
「うん……」

 元々友達が多いわけでもない上に長い間一人で過ごしてきた彼に、人付き合いの仕方など分かるはずもなかった。ティーカップを片付けていつものように談笑していたが、彼女はどうも何か考えているようで返ってくるのは生返事だ。
 その目は何処か遠くを見ている。心まで別の場所にあるような気さえする。

「これ。足が長くてさ、なんというか……可愛いんだけどアンバランスというか……おい、聞いてるか」
「……え、あ、美味しそうだね!」
「聞いてねーな」

 画帳の足長ウサギに返ってきた頓珍漢な答えに、アルマは呆れたように呟いた。えへへ、と笑うアレキサンドラが力無くて、呆れを通り越して心配してしまう。
 思考を支配する薄暗い感情に、彼女はぶんぶんと首を振った。彼といる時はいつだって楽しい気持ちでいたい。自分らしくもない。少年っぽく笑顔をアルマに向けたが、彼の優しい瞳で見つめられると何も言えなくなってしまう。

「何かあったのか」
「……えっと」

 喉の奥に言葉が支えて口籠る。言えるわけがない。情けなくて子供のようで、こんなに小さなこと、彼に呆れられてしまう。口角の引きつった曖昧な笑みはちぐはぐで、彼は視線を合わせるように上半身を屈める。
 広がる静寂の中、彼の前で何も言えない自分が恥ずかしくなる。アルマには知られたくない、嫌われたくない。けれど、彼の厚意を無駄にはしたくない。重い口を開いて、アレキサンドラは声を絞り出した。

「……『大人』になりたいんだ」
「? いや、お前は子供だろ」
「そうじゃなくて……ボクは子供だから大人の考えが分からなくて、だから……今すぐ、『大人』になりたい」

 彼の視線も言葉も、なんだか心に刺さる。自分でも何を言っているか分からなくて、彼女は頭がくらくらした。ぎゅっと手の甲を抓る。

「大人にならなきゃ、みんなが幸せになれないから……このままじゃダメなんだ。ね、どうしたら大人になれる?」
「どうしたらって……お前は今のままで十分……」
「ううん、ダメ。全然ダメ……全然足りない」

 次第に頭の中がはっきりしていくにつれて、今度は酷く気分が沈んできた。どうにか励まそうとしてくれるアルマの声も全く届かない。心の中で自己否定の声がして、彼女の心を蝕んでゆく。
 彼女の表情に陰りが見えて、彼は眉間に皺を寄せた。目の前の少女は卑弱で自信なさげで、いつもの軽口を叩く彼女とは思えない。
 それは皮肉なことに、唯の子供のように見えた。

「だからさ、何をすれば大人になるか教えて欲しい……アルマ、ボクを大人にしてよ!」
「お……お前、そういうこと他の奴に言うなよ……誤解されるぞ」
「何が?」

 そのうちに頭に熱が上がってくる。やり場のない感情が溢れて止まらなくなる。怒りとも悲しみとも似つかない感情に支配されて、居てもたってもいられずにアレキサンドラは立ち上がった。
 自信なさげに弱かった彼女の声が徐々に大きくなる。彼女は何かに追い立てられるかのように、切羽詰まっているかのように苦しげな顔をしていた。
 その時、不意に彼は気づいた。

「お前……その手、どうした」
「いや、違、これは、ボクが、ボクが弱いから……」

 アレキサンドラの手の甲の赤い痣。それに爪を立てる彼女。アルマは訝しげに目を細める。手を取ろうと伸ばした手は払い退けられた。怯えたような目の焦点が定まらない。
 彼が立ち上がり近付いてくるので、彼女は左手を隠してじりじりと後退りした。もうこれ以上見ないで欲しい、知らないで欲しい。弱い自分を、みっともない自分を。彼に見られていることで、認めたくも無い自分の感情がどんどん表に出てきてしまうのだ。
 そう思っても既に手遅れ、もう歯止めは効かなかった。

「大体……ボクは才能無いんだよ! 『凡人』のボクは毎日頑張って勉強して、死ぬほど努力して、努力して努力して……そうしてボクがやっとできることが、王様にとっては『当然』できることなんだ」

 どんどんヒートアップして、自分が分からなくなってゆく。彼女は表情を歪めた。

「皆はそれを当然のように享受するし、なんならもっと上を期待する……だから、それを下回ったら失望する。溜息をつく。こんなに頑張ってるボクを馬鹿にする!」

 こんなこと、言いたくないのに。みっともなくて恥ずかしいのに。

「皆はボクがこんなに努力してることなんて知らないだろうね! だって当然だから! 何も知らないクセに、ボクのことを『天才』って……楽にこの仕事をこなしてるって!」

 きっと、酷い顔をしているだろう。

「だからボクはもっと努力しなきゃいけない、大人にならなきゃ、許されない! 良い王様にならなきゃ……ボクは、ボクは……!」
「……そんなこと無いだろ、お前は十分良い国王だよ」
「うるさい!!」

 思わず大きな声が出た。目の前の驚いたような、悲しいような顔をしているの彼に、彼女は自身の血の気が引いていくのが分かった。

「アルマに何が分かるんだよ!!」

 こんなことがしたいんじゃなかった。もっと楽しい話がしたかった。こんなはずじゃ無いのに。
 何も上手くいかない。全部上手くいかない。どうして、どうしてこんなことに?

「何も、何も知らないくせに!!」
「知ってるから言ってるんだよ!」

 その一瞬、彼女は声を出すことができなかった。強く引き寄せられると、彼の腕に身体が包まれる。ぎゅう、と抱き締めてくるそれは優しくて苦しくて、胸を押して抵抗した。

「や、だ……アルマ、ボクは……っ!」
「……この国に来て、城下町を歩いて、びっくりしたんだ」

 その抵抗をねじ伏せるように、更に強く抱き締められる。次第に彼の体温と鼓動が伝わってきて、彼女は自分の鼓動が速くなるのが分かった。

「俺のいた国は、平和ではあったけど国王がダメで……いくら国が豊かでもそれは金持ちだけ。城下を歩いてたら、皆苦しそうな、辛そうな顔をしてた」
「……」
「だからこそ、この国に驚いたんだ。城下の人々が皆笑顔で幸せそうで……心底良い国なんだって実感した」

 頭の上から降ってくる優しい声に、心が溶かされてゆく。彼からは優しい石鹸の香りがした。何処か懐かしくて、段々と呼吸も落ち着いていく。

「それに、いつもアレキの机は本でいっぱいだろ。いつもそうやって色んな事を考えてきたんだな」
「……っ」
「だから、アレキはすごいよ。すごい良い国王だと思う。こんなに小さいのに皆のことを考えて、皆が幸せになれるよう努力して……まあ俺が言うのも何様だって感じだけど……よく頑張ってるな……」

 柔らかく髪を撫でられると、胸の中がじんわりと温かくなるのを感じた。心地良くて嬉しくて、感情の波が押し寄せてくる。
 真っ直ぐに見てくれる人がいた。弱くて子供で情けない自分を、許してくれる人がいた。彼が頭を撫でる手は手袋越しでも温かくて、気持ち良くてもっとしてそうしていて欲しい。

「アレキ、今日もお疲れ様。よく頑張ったな」

 少女の叫びを聞いて、酷く哀しくなった。とても愛おしくなった。どうすれば良いか分からなかったから、咄嗟にこうしていた。
 生まれた時から王様になるべきで、そうしない選択肢も拒否権も無いまま、知らないままに育ってしまった唯の子供。生まれた時から苦痛を背負うことを拒めなかった子供。大人になり切れない、中途半端な子供。彼女の我が儘も笑顔も軽口も、彼女の中の「子供」の唯一の逃げ場だったのだ。
 彼の言葉に、アレキサンドラは思わず彼の胸に顔を押しつけた。きっと今の顔は見られたくない。そんな彼女を、また彼は強く抱き締めてゆるゆると撫でる。
 腕の中で大人しくなった少女を愛おしそうに見つめる。ブロンドの細い髪は赤子のようで、指の間からするすると落ちてゆく。

「……ボクのこと、『温かな人々に囲まれ大切に育てられた子供』って……あいつら……」
「うん……」
「普通の家で普通に育ったクセに……何一つ、普通でいられなかった、ボクの事を、偉そうに……」
「うん、うん……」

 彼女が喉を震わせながら小さく呟くそれを、彼は聞いていてくれた。ずっと撫でていてくれた。まるで母親が子供にするように抱き締めてくれた。彼女は彼の服をぎゅっと強く握りしめる。

「皆の前ではいい顔して……ボクを庇うくせに、ボクのいないところで悪口言うの……一番むかつく……」
「あー……わかる」

 静かな部屋に、ゆったりとした時間が流れていく。沢山話をした。その全てを包むような彼の言葉に、何かが芽吹くような気がした。感じたことの無いような思いが胸で支えて苦しい。この気持ちを表現する言葉が自分の中に見当たらない。
 ゆっくりと顔を上げて彼の顔を見つめる。少し恥ずかしいのか、若干困ったように笑う彼を見ていると、思わず支えていたそれが声に出た。

「……好きなんだ、アルマのこと」
「…………は?」
「そっか、これは……好きって事なんだ!」

 衝動に身を任せて背伸びをすると、彼女は目を輝かせて彼に迫る。腕を離した彼が後退りするものだから、その顔を下から覗き込んだ。
 愛おしさが溢れてその言葉を何度も繰り返す。彼が微かに頬を赤く染めるのが可愛くて嬉しくて、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
 すっかり元気になったのは良いが元気になりすぎだ。安堵した矢先の彼女の告白に心臓の音が大きくなる。顔が熱くなるのが分かって、アルマは彼女に背を向けた。

「ボク今、すごいキミのこと好きだなって……ね、これって恋? そうなのかなあ」
「……多分それは恋じゃ無くて「好意」、だろ」
「そっか……でも、誰かをこんなに好きって思ったの、初めてだなあ!」

 どうしても顔を見ようとして回り込んでくる彼女から逃げる。結局逃れられずに見上げてくる彼女は満面の笑みで、彼は微妙な顔をした。
 初めての感情を噛み締めると嬉しくて、じっとしてはいられない。誰かを好きになるのがこんなに幸せだなんて、観念したかのように諦めの目を向けてくる彼すら愛おしい。きっと自分はずっと前からアルマを好きだったのだ。

「ねえ、アルマは? アルマはボクの事好き?」
「な……」
「教えてよ、ねえねえ!」

 最早先程の面影すら見当たらないアレキサンドラに、彼は喜べば良いのか腹を立てれば良いのかも分からない。自分の周りをぴょんこぴょんこと跳ねるのは仔犬のようで、短いしっぽが暴れるのが見える。
 自分の気持ちを誤魔化すように頭に手を置くと、大人しくなった彼女がふにゃり、と表情を緩める。そんな彼女を愛おしそうに、優しく目を細めた。

「……まあなんであれ、元気になったんなら良かった」
「えへへ」
「じゃ、また来るから」

 惜しい別れの時間がやって来る。寂しそうに笑う彼女に背を向けると、彼は窓に足を掛けた。
 ずっとこの時間が続けば良いと思った。それくらいに幸せで、愛しくて優しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。その後ろ姿に、堪らず彼女は声を上げた。

「アルマ! ボク、アルマのこと好きだからね!」

 彼の驚いた顔に、彼女はしてやったとばかりの笑みを浮かべる。呆れたように微笑んで去って行く彼の背中を目で追いながら、彼女は胸をぎゅう、と押さえる。
 彼の温もりを、低めの声を、撫でる手の優しさを思い出して胸が高鳴る。幸せの余韻を噛み締めながら、彼女はベッドに寝そべった。

「……好きだなあ」

 一人でそう呟いて、目を瞑った。


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[2018/11/17 23:21] | ダイヤモンド・ライト | トラックバック(0) | コメント(0)
-5-トルマリン・トロイメライ

「……うん」

 安物の色鉛筆を置くと、アルマは手にした画帳のページを満足気に眺めた。月明かりに照らされて踊る少女の姿は我ながらなかなか上手く描けている。自分の画力も捨てたものではない。
 薄暗い宿の部屋には珍しくランプが灯っており、橙色の炎が揺らめいて彼の元を照らしていた。画帳を閉じると彼は目を瞑る。
 殺せないのだと言った。彼女と出会った時点でそれはもう決まっていたのかもしれないし、自分が変わってしまったのかもしれない。本音の部分ではもう誰も『殺したくない』のだろうか……。
 そもそも、どうして殺そうとしていたんだっけ?

「やあ。随分と道草を食っているようだけど」

視界に広がる暗闇。冷たい手が顎に触れる。背筋を走る冷たい何かに彼はぞくりと身体を震わせた。背後にいる。脳髄を溶かすようなその声は、何故だか酷くおぞましく聞こえる。
 薄い雲が月を隠して、部屋には暗黒と静寂が広がる。気が付けば、揺らめいていた灯りは静かにその火を絶やしている。振り返れば、恐ろしいほどに美しい顔があった。

「ふふ、なんだか現を抜かしているようだね」
「……っ」
「君、視えるんだろう?」

 耳元で囁くようなその声に、ぎくりと彼は身体を強ばらせた。何か言おうにも言葉が喉で支えている。悪神の冷たい手は顎からするりと落ち、首元にゆるりと掛けられる。撫でるようなその動作は、まるで蛇に舐められているかのようだ。

「……代案は無いのか」
「代案?」
「彼女は手強い。俺には到底殺せそうもない」
「……ぷ、あははは! へえ、視えている君でさえ、手強いのかい?」

 何とかして紡ぎ出した言葉は苦し紛れで、アルマは苦い顔をした。少年のような笑い声は、無邪気と言うより嘲笑を含んでいる。頭の後ろで彼が笑っていないことなど分かっていた。
 氷のように温度のない手が、服の隙間から入ってきて身体に触れる。左胸を人差し指がつう、と撫でるのがぞわぞわとして気持ち悪い。

「今更ここまで来て日の当たるところに戻れるなんて、君はそんな楽観的なことを思っているのかい?」
「……そんな、こと」
「人殺しのくせに」

 幾百の四肢が縋り付いていた。四九九の血潮で床が濡れていた。女の泣き叫ぶ声、男の苦痛に歪んだ乾いた声、子供が母親に助けを求める声、子を失った親の絶望する叫び声。鮮やかな赤色で穢れた自分の身体。
 血の臭いがした。肉が腐る臭いがした。人間の息絶える音が聞こえた。分かっていた。自分には暖かな日差しの元に生きる権利はないんだと、分かっていた。
 分かった上で、彼女を求めてしまっていた。その光に縋っていた。


♦♦♦♦


「キミってばサイテー!」

 窓から顔を覗かせるなり、飛び込んできたのは少女の甲高い罵倒だった。拳をきゅっと握りしめてこちらを睨んでいるが大して怖くはない。
 というのも、彼女の怒りの原因は彼にある。それ故、彼は少々申し訳なさそうに眉を下げて目を顰める。

「ごめん」
「何も言わず会いに来る約束をすっぽかすなんて! もう来てくれないかと思ったんだよ!」
「ごめんって」

 謝罪以外の言葉が出なくて、アルマは頭を垂れた。不満そうな彼女を見ていると、ずっと夜の密会を待っていたことがありありと伝わってくる。複雑な心境だ。
 「あの夜」。彼は彼女に会いに行くことが出来なかった――否、しなかった。清廉な彼女に触れるのが恐ろしかった。血で穢れたこの手で彼女に触れることは、赦されないことのように感じた。
 もうやめようと思っていた。一度会うのをやめれば、もう望まずにいられるだろう。もうこんなに光に焦がれる苦しみもなくなるだろう……そう思っていた。

「もう来なくなっちゃうのかと思ったんだよ」
「……もし、来なかったらどうするつもりだったんだ」

 怒りが静まりつつあるその表情には、安堵と不安が滲んで見える。ふと問を投げかけると、彼女は少し俯いて考え込む。
 どうして結局会いに来てしまったのだろう。惹かれるようにここに来てしまった理由は自分でも分からないし、考えたくない。それに、どちらにせよ殺すには彼女に会わなければならないし。そう言い聞かせて罪悪感を誤魔化した。
 目の前の彼女をぼんやりと見つめる。長い睫毛が瞬きに合わせて動いて、吸い込まれそうに紅い瞳が覗いている。ふっくらした薄紅の唇の隙間からは、うーんと声が漏れる。

「……暗殺未遂、不法侵入、公務執行妨害その他余罪諸々で全国指名手配、かな」
「まじかよ……」
「なんてね、冗談だよ! キミが来なかったらそれは仕方のないことだから。ボクは潔く諦めるよ」

 彼女が珍しく真剣な顔で言うので、彼は苦虫を噛み潰したように眉を顰める。すぐさまアレキサンドラは舌を出して茶化すように、悪い顔をした。普段よりも幾分落ち着いた声色は少し寂しそうに感じられる。
 伏し目がちに微笑んだ少女に表情を歪めながら、アルマは腰のポーチを手で探った。何か赤い物が詰まった小瓶を取り出すと、その蓋を開ける。

「何これ?」

 目の前に差し出された小瓶を見て、アレキサンドラは怪訝な顔をして彼を見上げた。彼はその問に答えずに、食べてみろ、とだけ告げる。
 彼の手の中の小瓶からは嗅いだことのない匂いがする。不快ではないが少し怖い。親指と人差し指で摘まむと、それが少し湿っているのが分かった。恐る恐る口元へそれを運んで、彼女はびっくりしたように目を丸くした。

「すっぱ……っ!?」

 思わず口を窄めると、アルマは少し意地悪に口角を上げていた。その顔には「想像通り」と書かれている。しかし、口に含んだそれは暫くして甘さを滲ませ始めた。果肉の甘酸っぱさが何処か癖になりそう。

「これは俺の国に古くからあった漬け物を模してる。古い時代にこの国に移住したんだろう。ここの人の口にも合うよう、蜂蜜で味付けされてる」
「んー、へえ! あっ、もう一つもらってもいいかな」
「ああ」

 どうぞ、と差し出された瓶から梅干しを摘んで取り出すと、二つ目のそれを口にして彼女はまた口を窄めた。
目をぎゅっと閉じてその酸味に肩を震わせる彼女を眺めて、アルマはぼんやりと考える。彼女が想像通りの反応をした瞬間、思わず胸が躍った。そして同時に言い表しがたい背徳感に襲われるのだ。
 時折、正気に戻る。今自分が何をしているのか、自分の目的が何なのか、自分が何者なのか……最早、何が正気なのかも分からないが。

「そうだ、今アルバム見てたんだよ」
「……アルバム」
「そうそう。せっかくだし見せてあげるよ」

 眉間に皺を寄せて難しい顔をしている彼に、容赦なく浴びせられる少女の眩しい笑顔。大切そうに抱えているその分厚い冊子は、何度も繰り返し開いたのだろうか、表紙の所々が剥げている。
 重い表紙を持ち上げると、色褪せた写真達が並んでいた。彼女の視線の先には、彼女と同じ凜とした紅い瞳で、艶やかな黒髪の女性。顔立ちはどことなくアレキサンドラに似ているような気がする。

「ボクの母上だよ! まあ、身体が弱くて三歳の頃に死んじゃったんだけどね」

 そう呟いた彼女の横顔は、存外にいつも通りのように見えた。彼女がもし母親のように成長すれば、間違いなく絶世の美女になるだろう。

「……ボク、もう殆ど母上のことを覚えてないんだ。声も、仕草も、温もりも思い出せない。だから、せめて顔だけでも忘れないようにって」

 アレキサンドラは健気に笑う。寂しくはない。居ないのはずっと慣れっこだ。ただ、忘れてしまうのが怖い。母親に寄り添う顰め面の男性――父親に視線を移すと、彼女は懐かしそうに微笑んだ。

「ね、アルマは? キミの家族はどんな人だった?」
「家族……か」

 視線を上げて覗き込んでくる彼女の瞳に、アルマはまた酷く頭痛がした。細めた目の睫毛の隙間から、霞掛かったような曇った瞳が覗く。深い霧の中、断片的な記憶がちらついていた。けれどそれは何の手がかりにもならず、指の間から滑り落ちていく。

「……やっぱり、何も思い出せない」

 ふと、以前見た嫌な夢のことが頭を過ぎる。

「……というか、そもそも……ロクな事が無かった、気がする」
「うーん……じゃあ、ボクがアルマの楽しい思い出になるよ! 思い出せないなら、これから楽しいのを積み重ねていけば良いもんね」

 驚いたように一瞬目を見開いた彼に、アレキサンドラは「へへん」と得意げに笑った。痛いくらいに眩しいその笑顔を、アルマは直視することが出来なかった。
 もう十分だ。もう十分、お前は俺に光をくれたから。これ以上望むことは、赦されない自分にとっては罪なのだ。

「余計なお世話だ」

 だから、もう望む必要も無いようにしなきゃならない。離れなきゃいけない。「人殺しのくせに」。耳元で、そう囁く声がした。

「大体、お前は俺の何なんだ? 人の心にずかずか踏み込んで、何がしたい?」
「えっ、ごめん。気に障ったのなら謝るよ」
「鬱陶しいんだよ、お前のそういうとこ」

 喉の奥から突き上げてくる思ってもいない言葉に、口角が引きつるのが分かった。言葉の一つ一つが、己の心をずたずたに引き裂く。そうやって、できるだけ痛むように、己の心を抉るように言葉を絞り出した。
 目の前の少女の微笑みが段々と崩れてゆく。その顔を直視することが出来ない。血の気が引いたように凍り付く表情が、ぐらぐらと揺れる視界の中で歪んで見えた。
 吐き気がする。果たして自分はどんなに醜悪な顔をしているのだろうか。だけどこれが正解だ。醜い殺人鬼が普通の人間になれるはずもないのだから。
 短く声を上げて戸惑うアレキサンドラに背を向けると、彼は何も言わずに窓から飛んで部屋を後にした。痛くて怖くて苦しくて、最後まで彼女の顔を見ることが出来なかった。


♦♦♦♦


「♦♦♦! さあ、この兄と兎狩りに出掛けましょう」

 その兄は、たいそう美しく賢く聡明で、たいそう自信を持ち合わせた人だった。
 少年は兄のことが好きだった。

「あ、兄上……今日は遠慮します。読みたい本があるから……」
「そうですか。ではまた次の機会に」

 閉ざされた襖の向こう、父の豪快な足音と嬉しそうな笑い声、忙しく支度をする兄と使用人達の騒がしさを端で聞きながら、少年は怯えた目で書物を眺める。誰にも気にかけられないように、部屋の隅で小さくなる。
 次第に小さくなっていく人々の声。やがて静寂が訪れると、漸く訪れた安堵感に胸を撫で下ろしながら少年は本を閉じた。
 襖を開けて廊下を歩けば、木の床が軋む音まではっきりと聞こえる程に静かだ。穏やかな春の日差しを喜ぶ小鳥の囀り、そよ風に揺れる木の葉の囁く声、草陰の小さな獣がこっそりと駆ける音。愛おしそうに目を細めながら、少年は屋敷の裏へと歩く。

「兎狩りなんて、可哀想だよねえ。ウサギなんか狩ってどうするんだろ。食べるのかな……ウサギは可愛いのに、ねえ、菊之助」

 台所でくすねてきた食べ残しの魚に食いつく灰色の猫を、少年は慈愛に満ちた微笑みで見つめる。骨を残して食べ終えた猫が人懐っこくすりすりと頭を寄せてくるので、喉を撫でてやるとか細い鳴き声が漏れた。

「えへへ、兄上と父上と違って、僕は動物が好きだからなあ……あっ、菊之助~! くすぐったいよお」

 まるで親猫だと勘違いされているかのように人差し指を舐めてくるから、思わず小さな笑い声が零れてしまう。迷い込んできた弱った子猫をひっそり屋敷の床下で飼い始めたのは三ヶ月前。兄にも両親にも使用人にも、屋敷の誰一人にもバレないように、少年だけの秘密だ。

「あーあ、きっと軟弱だとか情けないとか言われてるよ……ううん、良いんだ。僕には菊之助がいるもんね」

 猫を抱き上げぎゅう、と抱き締めると命の温もりを感じた。初めて出会った時とは比べものにならないくらい大きくなって、重くなった。少年は頬をすり寄せる。

「君だけが、僕の大事な友達だよ」

 にゃあ、というか細い鳴き声が、まるで返事みたいで面白くて、少年は笑った。



「♦♦♦様、♢♢♢様と上様は街へお出かけになりましたよ。♦♦♦様はよろしいのですか」
「えっと……うん、僕はやりたいことがあるから」

 お付きの使用人の問いかけに微妙な笑顔で答えて、少年はまたその場をやり過ごす。屋敷に穏やかな時が流れ始めて、やっと唯一の友に会える癒しが訪れるのだ。
 今日の食べ残しには沢山身が付いている。きっと菊之助は勢いよく食いつくだろうなあ。鼻歌を交えながら、少年の足取りは軽やかだ。屋敷の床がぎしぎしと音を立てる。
 いつもの場所に辿り着くと、少年は床下を覗き込む。こうするといつも、菊之助は少年の胸に飛び込んでくるのだ。しかし、その日はどうしてか菊之助の姿はなかった。
 きっと何処かへ食べ物でも探しに行ったのだろう。探す片手間にぶらぶらと辺りを歩いていると、ふとツンと鼻につく異臭に気が付いた。何だろう、とその匂いのする方へ歩いて行くと、やがてその足が止まった。
 灰色の子猫の死骸が一つ。

「あ、あ……っ、あ」

 手の中から、身のよく付いた魚が滑り落ちる。声にならない声が、喉から突き上げてくる。胃の奥から食べたもの全てが戻ってくる。その短い灰色の毛並みは間違いなく、少年の友だった。

「ゔ、ぉええ、え……っ」

 耐えきれずに込み上げてきたものを木陰に嘔吐する。胃液で酸っぱい口の中は不快で、また吐き出してしまいそうになる。背中を冷たいものが駆け抜け、身体中から汗がだらだらと流れると同時に、涙が溢れてきた。
 逃れようのない事実がそこにある。まだ幼い小さな友が死んでいる。異臭を放つ友の亡骸には、ハエが数匹集っていた。そっとその亡骸を抱き締めると、ただの肉塊に成り果てたそれは悲しいくらいに冷たくて、そこに命が存在しないことを強く感じた。
 ふと、少年は気づいた。子猫の死骸には、刃物で切りつけられたような深い裂傷がある。ぞくり、と肩をふるわせたその時、背後で砂を踏む足音が聞こえた。

「あ、に……うえ?」
「どうして泣いているのです、♦♦♦」

 街へ出掛けたはずの兄の姿がそこにはあった。手を赤に染めた兄の姿がそこにはあった。

「あにっ、あ、あに、う、え……? ど、どうして、こっ、こんな」
「ああ、それ、床下に薄汚い獣が棲み着いていたので殺しましたよ」

 まるで落ちていたゴミをただくずかごに捨てたように平静な声。陰になった兄の表情は、暗くて見えなかった――否、恐ろしくて見ることも出来なかった。がくがくと震える口をどうにか動かして、反論しようとするが声が出てくれない。少年は情けなく喉を震わせ喘ぐことしか出来ない。

「♦♦♦がこの猫を可愛がっていたのは知っていましたよ」
「……っ!? じゃあ、どっ、どうして」
「? 床下に薄汚い生き物なんかがいたら、不衛生でしょう」

 温度のない瞳で、温度のない声色でそれは告げられる。少年なりの精一杯の反抗心も、兄の前では簡単に崩れ去ってしまう。
 ぐらぐらと視界が歪んでゆく。いつからバレていたのだろう、知っていてどうして何も言わず、どうして簡単に殺したのだろう、どうして……。
 兄の目に映るこの灰色の猫は、ただの害獣に過ぎないのだ。たとえそれが弟の大事な友人だろうと関係ない。彼は「弟の可愛がっている猫」を殺したのではない。ただ「家に棲み着く獣」を駆除しただけ。

「♦♦♦、この世は弱肉強食です。強いものが弱いものを淘汰するのが世の常ですから」

 菩薩のような微笑みは余りにも無慈悲で救いがない。この世の全てに肯定されたその人の前で、少年は言葉を発することすら出来なかった。

「貴方は優しすぎる。そこがいけないのです」

 少年は兄が好きだった――それは「恐怖」であり、この人を肯定しなければ、愛さなければ、淘汰されてしまうような気がしたからだった。


♦♦♦♦


「……っあ!」

 飛び起きた時、柔らかな日差しが窓から差し込んでいた。薬を飲んだからか、また酷く眠っていたらしい。以前にも増して尋常じゃない量の汗が肌着を濡らしていて、アルマの眉間の皺が深くなる。
 ただ一つ、この前の悪夢と違うのは、その内容をはっきりと覚えていること――というより、元々持っていた記憶を「思い出した」。
 焦点の定まらない瞳でぼんやりと自分の膝を眺めていると、ふと視界に小さな毛玉が飛び込んできた。

「……ぁ、菊之助っ!」

 嘗ての友の名が口をついて出る。ハッとして口元を押さえると、全身を駆け巡るような悪寒と共に何かが込み上げてくるのが分かった。

「ぉぶ、う、ああ」

 トイレに駆け込んで吐き出すと、口の中に残る胃液の不快さは先程見た夢と同じだった。酷い頭痛と震えが止まらない。苦痛に表情を歪めていると、背後から小さな足音が聞こえてくる。
 にゃあ、と黒猫は小さく声を上げる。妙に人慣れしたその子猫はすりすりと身を寄せてくる。違うと分かっていながらも、灰色の子猫の死体が頭を過ぎって彼は再び嘔吐した。
 生き物を殺すことはおろか、その死体すら受け入れられない少年が、どうして殺人鬼になんかなってしまったのか。大嫌いな血の赤色が、どうして今も自分の手にこびりついているのか。
 どうして、こんなにもちぐはぐな自分が生まれてきてしまったのか? 上手く呼吸が出来なくなってゆく。

「……っは、!」

 座り込んだ彼の目の前で、その円らな瞳は彼の瞳を覗き込んできた。これは菊之助ではない。落ち着いて小さな獣に触れると、黒猫は甘えたように喉を鳴らす。
 抱き上げてみると、何処か懐かしい感触がした。十年近く前の思い出が鮮やかに蘇ってくる。ただただ愛おしくて、楽しかった日々が脳裏に映し出される。
 その微笑みは、まるで少年のように。
 確かに彼の手は汚れていた。数多の命を奪ったその罪は消えないし、こびりついた血の臭いは落ちない。
 けれど、アレキサンドラという「光」から離れることは、その罪に対する何の償いにもならない。ただの自己満足に過ぎない。
 ずっと自分の罪に向き合わずに、逃げ続けていたのだ。

「……うん、ちゃんと謝らなきゃな」

 抱き締めると、小さな生命を感じた。暖かくて、微かな筋肉の動きも、皮膚の下から伝わる鼓動も、生きている感覚が心地よかった。



 空いた窓から吹き込む冷たい風は肌に滲みて、アレキサンドラは小さく身震いする。待つ意味などもう無いのだが、何処か彼が来るのを待たずにはいられないのだ。
 アルマのことを考えると、どうしても顔が曇ってしまう。言葉も表情も声色も、はっきり覚えている。彼はもう来ないだろう、忘れてしまえたら良いのに。
 一つ、悩ましげな溜息が漏れた時、風の音が微かに変化することに気づいた。

「……っアルマ!」

 思わず待っていたとばかりに窓際に駆け寄ってしまい、子供みたいだと彼女は少し恥ずかしくなる。部屋に降り立った彼の表情がよく見えなくて、アレキサンドラは不安げに眉を下げる。
 一方のアルマは、彼女を前にしてどんな顔をすればよく分からなかった。だけど、彼女とちゃんと向き合いたい。視線を挙げた先の戸惑った顔をした彼女の目を、真っ直ぐに見据える。

「……その、お、思い出したんだ、昔のことを」
「えっ、ほんとに?」
「ちょっとだけ……だから、その、聞いてほしくて」

 突拍子もなく口から出たのは、予想だにしない言葉だった。自分がどんな顔をしているのか分からない。思った以上にたどたどしくなってしまった言葉が恥ずかしい。
 彼女に誘導されるまま、ソファに腰掛ける。小さく深呼吸すると、伏せた睫毛の隙間から見える瞳は桃色に輝いて見えた。

「……猫を飼ってた。誰にも内緒で、家の裏で」

 ぽつり、と呟くと、色鮮やかに思い出が蘇ってくる。柔らかな日差しも、鳥の声も、風の音も、まるで昨日のことのように思えてくる。

「猫? へえー、どんなの?」
「灰色で毛並みは短くて、これくらい小っちゃい、雄の……菊之助って呼んでた」

 不意に彼の口元が綻ぶのに、アレキサンドラはどきりと胸が疼くのを感じた。その優しい横顔は、いつか街に出掛けた時に見た微笑みと同じだった。

「床下を覗いたら飛びついてくるんだ。食べ残しの魚をこっそり持って行って、嬉しそうに食いつくのが可愛くて」
「うんうん」
「菊之助は抱き締めると小さくてあったかくて、ふわふわで、よく猫じゃらしなんかで遊んだ」

 愛おしそうに話すアルマを見ていると、彼が心底その猫を愛していたんだと伝わってくる。そんな彼をアレキサンドラもまた、愛おしそうに目を細めて眺めていた。

「それでそれで? 菊之助はずっとこっそり飼ってたの?」
「……それが、うん……ちょっと、言いにくい話、なんだが」

 彼の表情に陰りが見える。口籠もる彼をじっと見つめると寂しげな苦笑いが返ってきた。アルマとしても、この続きの話はするつもりではなかったのだ。悩んだ挙げ句、彼は重い口を開いた。

「……殺されたんだ、兄に」
「え」
「ああ、いや……兄上にも事情があったから、まあ」
 
 予想通り。アレキサンドラが目を見開き、その後何処か申し訳なさそうに目を逸らしたのを見て、彼は困ったような笑顔を取り繕う。
 ただ一つ、引っ掛かっている。自分で口に出してみて彼は気づいた。大切なことを、あの夢の先にあるものが霞掛かっているのだ。

「……その後、確か、俺は……ごめん、この先が思い出せなくて」
「……あっ! じゃあ、絵を描いてみたら? 何か思い出すかも」
「絵を?」

 ぱちん! 淀みかけた空気は、彼女の手を打つ乾いた音で一変する。見上げた彼の瞳に光が灯るのを見て、アレキサンドラはにっと笑った。
 言われたとおりに画帳を開いて鉛筆を握ってみると、真白な紙はまるで更地になった自分の記憶のように見えてくる。鉛筆の先が紙に触れると、溢れた記憶が描き出される。

「これは……日向で眠そうにする菊之助」
「あはは、かわいい!」
「……これは、蛙を脅かそうとする菊之助」
「この顔! 可愛い~」

 そこに描かれた緩くデフォルメされた猫は今にも動き出しそうに生き生きしている。欠伸をする姿、寝そべって伸びた姿、びっくりして跳ねる姿。記憶の中のそれが、さらさらと紙の上に映し出されていく。
 彼女がキャッキャと楽しそうに反応するものだから、アルマの筆も止まらずに紙の上を踊る。手を舐める姿、蝶を追いかけて駆け回る姿、レンゲの花の側に佇む姿……。

「あっ!」
「! 何、どうかした?」
「……これは、俺が描いた絵だ」

 紙の上の絵が、記憶の中で少年が描いた絵と重なる。思わず出た大きな声に、アレキサンドラはびくりと肩を震わせた。

「お墓……そう、こっそり菊之助のお墓を作った」

 庭の隅、菊之助の亡骸を埋めて目印に小さな枝を立てただけのお墓。少年の精一杯の弔いの気持ちだ。時たま訪れては、食べ残しの魚を供えて手を合わせた。
 菊之助が死んで幾ばくかたったある日のことだった。

「菊之助のお墓に、レンゲの花が咲いてた。綺麗なピンクの……余りにも綺麗でびっくりして、これは菊之助の命が残した花なんだって思った」

 一頻りその花を眺めた。寂しい庭の隅に凜と佇む桃色の花は命の輝きを放っていた。風に吹かれ揺れるそれは、少年の脳裏に色濃く焼き付いた。

「その花を生きたままの姿で残したくて、どうしようかって……俺には絵を描くことが出来たから」
「うん……」
「紙の中でずっと、レンゲの花も菊之助も生きてて欲しかったんだ」

 色鉛筆も絵の具も使って鮮やかに彩られたその絵は、命の温もりを表現していた。大切に仕舞って時折それを眺めては、少年は愛おしそうに目を細めていたのだった。

「……この前はごめん、それを謝りたくて。あれは本心じゃない」

 話し終えて画帳を閉じると、アルマは彼女に顔を向けてそう告げた。アレキサンドラはぱちくりと瞬きすると、ほっとしたように肩を下げる。

「なんだあ! よかった……てっきりボク、またキミの触れられたくないとこ触れちゃったかと……」
「いや……その。俺は赦されない罪を犯したから、アレキと一緒にいるのも許されないって思ったんだ」
「……うーん、でもさーそれ、ボクの気持ち一切考慮されてなくない?」

 口籠もるアルマに、彼女は腰に手を当てわざとらしく頬を膨らませる。いつもの怖くない威嚇に、彼は思わず後退りした。くりっとした紅い瞳に見つめられると、どうも反論しにくいのだ。小動物のようで。
 えへ、と悪戯っぽく笑うと彼女はいつもの笑顔に戻る。その微笑みは柔らかくて温かい、彼が手を伸ばし求めたものだった。

「キミがどんな罪を負っていようと、誰を殺していようと、ボクには関係ないよ。ボクはね、『アルマ』ともっと一緒に居たいんだ」

 誰かの許しなんていらない。青年と少女の関係を知るものもいなければ、阻むものも居ないのだ。アレキサンドラの無邪気で真っ直ぐな言葉に、アルマはゆっくりと頷いた。
 まあ、不法侵入と殺害予告は罪なんだけどね、あはは! 彼女お得意の王様ジョーク(自称)に苦笑していると、ふと腰のポーチの中で何かが蠢いたような気がした。

「? あっ、こら! お前っ」
「なに?」
「なんか重いと思ったら!」

 制止する彼の腕の間をすり抜けて飛び出したのは、小さくて黒い猫。見事に追っ手をかいくぐって部屋の中を駆け巡り、彼女の身体に飛びついた。

「うわー! 何これ!?」
「……宿の部屋によく来る猫」
「かーわいい!」

 飛びついてきた黒猫を抱き上げて、アレキサンドラはじっとその目を見つめる。見知らぬ人だというのに暴れもしない、人慣れしきっている。
 ざらざらの舌で指を舐められてくすぐったいと騒ぐものだから、彼はやれやれ、と呆れたように一人と一匹を眺めた。小さいくせに随分賢い奴だ。腕の中ですっかり大人しく甘えた声を出す黒猫を楽しそうに見つめながら、彼女はアルマに駆け寄る。

「ね、この子、名前は?」
「な、名前……?」
「ないの? じゃあ付けてあげようよ」

 目を輝かせて見上げてくる少女の表情に、青年は気疲れしたような顔をする。やっと以前の雰囲気が戻ってきたようだ。
 プリムローズイエローの瞳の猫を見つめながら、アルマはうーんと唸り声を漏らす。彼女のぴょん、と飛び出た髪の毛がぴょこぴょこと愉快そうに揺れた。

「…………菊次郎」
「ええ~! なんか違う~」
「あーもう! じゃあアレキが考えろよ」

 不満げに声を漏らす彼女になんだか腹が立って、投げやりになってしまう。そのやり取りも、彼にとってはとても心地がよかった。彼女が真剣に悩んでいる姿を見つめるその瞳は穏やかで、未だに少しぎこちないが口角は優しい笑みを作っていた。

「……あっ、じゃあ『レンゲ』! さっきレンゲの話したでしょ」
「ああ……まあ、良いんじゃないか」
「ふふ、レンゲ! 良い名前だね、かわいいね」

 何度か名前を呼ばれると、黒猫はにゃ、と可愛い声を返す。いくら何でも人慣れしすぎだと思うが……。ぎゅう、と彼女と額を押しつけ合うその姿に、彼は嘗ての自分を追想した。
 消えない罪悪感も、血の臭いも全てを受け入れて、背負って生きていく。けれど今の彼は、友が教えてくれた生命の温かさを思い出した。
 もう戻れない道を背に、新しい道を歩いて行く。その道中は、きっと一人ではない。



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[2018/09/20 01:51] | ダイヤモンド・ライト | トラックバック(0) | コメント(0)
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